2020年4月23日木曜日

人生の最大の苦しい経験(中)



 新しい柔らかな光が、その古い言葉の上に、またその言葉の中から、照り輝いていた。落ち着いた安らかさが、こっそりと忍び込んできた。新しい平安は、これまでにないような、快い、より真実なものであった。そして、その平安が、ほとんど彼をおおい、彼を圧倒した。
 しかしながら、彼の心は、その平安にひたりながらも、大きな孤独感にとらえられていた。彼はどれほどの時間、そこにすわっていたであろうか。自分にもわからなかった。やがて彼はゆっくりと丘を下り、歩きなれた道、ふたりで手を取り合って歩いた道を戻って行った。
 彼は、いつもと変わらない家、また人々の中に戻って行った。しかし、生活は変わってしまった。もはや決して、これまでと同じ生活ではない。それはありえないのだ。人生の最大の苦しい経験にはいってしまったのである。それ以来、彼は決してこの事を忘れてはいない。その記憶は、あたかもついきのうの事のようにあざやかに残っている。

  土くれのやかたの中で
  すべての灯は消えた。
  そこに住む人が去ってしまったので
  カーテンは引かれた。
  夜のうちに、門口を通って、
  彼女はそっと忍び出たのだ、
  光の都の中に
  自分のすみかをととのえるために。

 しかもそれは、なんとありふれた事であろうか。そうだ、平凡で、ひんぱんに見られる、ありふれた事、全く当然の事なのだ。しかし、決してそうではない。決してありふれた事ではない、たとい毎日、毎時間、だれかのむすこか娘に起こっている事であるとしても、それは、孤独と悲嘆のうちになされる、きわめて神聖な、また厳粛な事なのである。

 人生において、死というものは、最もありふれたものである。その影は決して去らない。郵便配達人は私たちの手の中に、それを暗示するようなものを届けて行く、友人の手紙も、同じような感じのものを持っている。半旗、教会堂の告別の鐘、教会の窓から流れ出る低い哀歌、のろのろと動く行列ーこうした事は、毎日起こっている事である。
 商業団体は、国内の通信機関をせいぜい五分ほど停止して、死者に敬意を表わし、そしてたちまち、再びすさまじい速度で仕事を開始する。トロリー・バスやその他のバスは、いったん停車をする。白い石碑には黒い布が掛けられる。公共的な建物は、悲しみを表わす布でおおわれるーこのような事は、果てしない同様な物語を告げている。

 昔ながらのあの書物ー聖書ーを開くと、直ちに、エバがかたくなって身を横たえているわが子のためにすすり泣いている場面にぶつかる。そのすぐあとに、「そして彼は死んだ」と単調な調子で述べている哀歌のあの驚くべき章(創世記五章)が続く。
 大洪水の中に流れ去った人々の絶望的な叫びと、エジプト全家の悲嘆に沈んだ人々が長子の死をいたむ泣き声とが、私たちの感じやすい耳をとらえる。
 更に急いで読んでゆくと、再び、あの愛するイスラエルの詩人が、姿は美しいがわがままで横暴なむすこの死を嘆き悲しんでいるさまを見るのである。
 更に読んでゆくと、丘の間にある小さなベツレヘムの町で、悲しみに沈む母親たちの泣き声を聞く。悲しみの交響曲は、決して終局に至らないように思われる。

「ラマから声が聞こえる。苦しみの叫びと、大きな泣き声が。ラケルが子どもたちのために泣いている。だれも彼女を慰めることができない。子どもたちは死んでしまったのだから。」(マタイ2:18 リビングバイブル訳)

(『人は死んだらどうなるか』11〜14頁より引用。昨日は西ドイツ映画「朝な夕なに」をYouTubeで観た。高校時代に映画館で観た。それ以来六十余年ぶりだった。https://www.youtube.com/watch?v=cwWg0xHt9b4 悲しい思いをする人々がたくさんおられる。)

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