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その名も むらさき露草 映える色 |
いつになくしょんぼりしているので、私も一緒に自転車で探しに行くことにした。この時は思い出さなかったが、一年前私は水田に自転車もろともチェーンを投げ出してしまって、結局そのチェーンは見つからないまま、新しいチェーンに取り替えた。その時携帯で妻を呼び出して、急遽駆けつけてもらった覚えがある。考えてみると、私たちは年がら年中、このような「失くしもの探し」を繰り返している。
https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2024/06/blog-post_23.html
ところが今回、意外に早く見つかった。記憶の定かでない妻なので当てにならないが、とにかく、元来た道を辿らせ、私がその後を追うというスタンスだった。道々、「見つからなくっても、どっち道100円ショップで買えるわい、ここは妻の気が済むまで一緒に探してみよう」と腹を括っていた。しかし、意外や意外、家から7、800メートル先のコンビニエンスストアの駐車場近くの側溝の溝近くに落ちていた。見つけたのは私だった。路上に何やら銀色の物が見えたので近づいた。まさか、それが妻が失くしたチェーンだとは思えなかった。私の呼び寄せる声で近づいて来た妻に確認させるとまさにそのチェーンであった。
妻はどうして自分の自転車のチェーンがそこにあったのか今もってわからないと言う。しかし、結果オーライでめでたしめでたしであった。そこで思い出したことがあった。それはヨハネの福音書5章5、6節の中に書き記されている、三十八年間病に苦しめられていた男が、誰からも相手にされずにいたところ、イエス様に見出されその病から癒されるシーンだった。
明治期に日本人の救いのためにイギリスからやって来たバックストン宣教師(1860〜1946)はそのことを次のように語っている。
牧者(主イエス)は羊を求め給います。失われたる羊は牧者を求めません。善き牧者は失われたる羊を求め給います。(中略)主は私共を求め給います。度々私共の心中に主を求むる精神がありません時にも主は私共に近づき給います。私共は主を求めません。主が私共を求め給います。
このバックストン宣教師のことばをたまたま先週の土曜日、要するに妻がチェーンを失くした日曜日の前日読んでいて、我が身に照らし合わせて痛く感動していたからである。妻と結婚する以前、私は主を求めていなかった。結婚する前、妻も主を求めていなかった。しかし、主はその当時、まことの愛を知らずして苦しんでいた妻を見出し、救ってくださった。そしてその妻は、当時結婚を前にして、同じように苦しんでいるように思えた婚約者の私にイエス様を紹介した。けれども、私には全く求める気持ちがなかった。不思議なことに、その私(迷える羊である)を主イエス様ご自身が聖書のことばを通して、声をかけ見つけてくださったのだ。道の端っこに横たわっていて、自分では動くことができないで、そのまま置かれっぱなしになってしまう「チェーン」と同じだった私を。
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。(旧約聖書 詩篇23篇1節)
昨日分のコメントに続き第2弾です。
返信削除自分のつれあいをどう呼ぼうと全く自由な話なんだけど。「家内」と呼ばれるんですね。なんか、家の中に大切に仕舞ってある方のような感じです。
個人的な考えとして、対外的にも「夫」「妻」と言えたらいいなと思っています。
(重ねて言いますが)個人的には、人前で「おとうさん」「おかあさん」と呼び合うのは、絶対なしにして欲しいです。あなたの父親でも母親でもないのですから。
前半の仰る意味は良くわかりましたので、早速訂正させていただきました。それに対して後半の意味(重ねて言いますが云々の文意)が具体的に何を指して言っておられるのかよく分かりませんでした。お教えください。
削除全くの私見ですが。
返信削除つれあいを人前で、「おとうさん」「おかあさん」と呼ぶことはありませんか。あるいは呼ぶのを聞いたことはありませんか。
一人称ではなく、二人称で(子どもの立場で)表すことに違和感(という大袈裟なものではないけれど)を感じます。
また自分のことを指して「おばさんの話聞いてね」という言い方も・・・「私で」いい、というか「私が」いいと思います。
言葉、というか表現に「ん?」と思うと、つい一言言ってしまい、迷惑がられています。
黒田です。その後、スマホにホームページを入れて時々読んでいます。いろいろ考えさせられて興味津々です。自転車の遅延て100円ショップにでも売ってるんですか?
返信削除自転車のチェーンは100円で売っていると思うのですが・・・先輩からこのようなお便りいただくとは、光栄です。
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