2011年7月8日金曜日

ことばと時代

余りにもお粗末な内容であった。言わずと知れた松本復興大臣の言をめぐる一連の騒動である。信じがたい言辞であった。松本氏と聞いて松本治一郎氏と関係がある方かと一瞬思ったのだが、案の定そうであった。偶然だが、その二三日前、モノを整理していて、たくさんあるパンフを捨てにかかり、何となく捨てがたく残したものがあった。その中の一つに「夜明けの旗」という映画パンフがあった。表紙上部に「荊冠」が赤く染められ、黒雲の暗夜に浮かぶという印象的な図柄である。映画を視聴して、その骨太な生き方と義を求めて生きる生き方に感銘を受けたように記憶している。パンフによると治一郎氏は今から45年前の1966年に亡くなっている。治一郎氏には信じがたいことであろうが、それだけ時代がますます悪くなっているのだろうか。大変残念なことである。

その暴言をきっかけに自分自身が受けた一つのことばを思い出した。それは小学校高学年か中学校に入る頃か記憶が定かでないのだが、病院のお医者さんに診察してもらった時だった。開口一番というか、診察の最初に「何だ、針金のような足だな」と言われた。その時、顔から火が出るように恥ずかしかった、と同時にそうして自分の姿は外の人の目にそのように映るんだということを自分のうちで繰り返し言い聞かせた。爾来、人の前で裸になるのが何となく恥ずかしくなった記憶がある。

けれどもそのお医者さんを恨んだ訳でなかった。父が肺病に罹患し、その関係で診察を受け、励ます意味があったように思うし、現に、もっと太い足になるように食べ物を良く食べて運動するんだと言われた。当方には豪放なお医者さんの印象が残っている。むしろ図星であったので、自身でも納得せざるを得なかった。ただ「針金のような足」と決めつけられた悲哀とそれでも生きているという言われた側の人間存在の誇りのようなものを持っていた。これから自我が形成されるという微妙な時期であった。今時の時勢だったら親は目くじら立てるのかもしれない。でもことばの背後に愛を覚えていた。それは社会全体が医者は医者として当然のことを行なっている。私たちは尊敬を持ってそれにしたがう、という社会であった。それが信頼関係に基づく社会秩序でなかったのだろうか。その先生にも私のために言ってくれているという愛があった。だから一見暴言と思われる言葉にも傷つかずにすんだのではなかろうか。

ひるがえって自らも同じ癖なしとしない。何と多くの人をこれまで傷つけてきたことであろうか。そして今もなお傷つけている。口にチャックをするわけにはいかない。日々悔い改め心の中心にイエス様に入っていただくしかそこから離脱する方法はない。松本氏にとってこのことが真の悔い改めにつながるならこれほど幸いないことはない。「荊冠」は主イエス様が全ての人のために味わわれた死である。

わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。(新約聖書 マタイ12:36)


「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」(同上 マルコ1:15)

その弱い人は、あなたの知識によって、滅びることになるのです。キリストはその兄弟のためにも死んでくださったのです。(同上 1コリント8:11)

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