2011年6月24日金曜日

ある日の近江路(下)

八日市駅頭にあった「むらさき(?)」
近江八幡を出たのは二時半を過ぎていたが、再び近江電車に乗り、高宮にまで戻った。接続時間を読み違えて、途中八日市駅に降り次の上り電車まで45分待たねばならなかった。連絡が良ければそれこそ自宅まで45分前後で帰れるはずなのに、えらいミスだった。やむを得ず駅前のベンチでしばし時間を過ごす。日曜日とあって駅前のお店は閉店(?)だ。大きい駅舎が建物然として偉容を誇る。往時は決してこうではなかったであろう。しかし、そんなこちらの思いもものかわ、路線バスが何台も止まっており、びくともしない。地方都市の心意気を感ずる。この特徴ある町も平成の町村合併で八日市という名称がなくなり東近江市になってしまった。津波で丸ごと持って行かれた東北の人々の悲しみにはとても及ばないが、現代日本で田舎の地方都市が生き延びるのは至難の業だと思う。幸田真音さんも、共産党の市田さんも、さきがけの武村さんもこの駅を上り下りしたのだと思う。記念に駅構内にあった「むらさき」という花を撮った。

八日市からものの2、30分で高宮にたどり着く。予定より帰りはすっかり遅くなり4時過ぎてしまった。しかし途中、わずか二車両で乗客も10名内外なのに、自転車を持ち込んで乗っている人の姿に食指を動かさられた。そうだ、近江電車はサイクルトレインでもあるのだ。思い切って義弟の家と義妹の家をこれから訪れることにしようと急に思い立つ。家内は家内で朝の同じフリー切符で米原まで行き、そこから新幹線に乗れる。私はまだ草刈りが残っているのでまだ滞在しなければならぬ。それは明日に譲り、終日フリーでかつ自転車持ち込みのこの日曜日の切符の特権をフルに生かそうと先ほどまでの疲れもふっとんで新たな試みに胸を躍らせる。生憎、空は曇天いつ雨が降り出してもおかしくない。私の家から、義弟、義妹の家を往復するとなると15キロ程度である。

ところが効率よく三つの駅、高宮駅、尼子駅、豊郷駅を利用すれば半分程度の移動で済むと踏んでいた。高宮駅から尼子駅まで電車で5分もかからないであろう。尼子駅から乗り込ませた自転車で15分程度山に向かって走る。義弟の家、家内の実家にたどりつく。そこから義妹の嫁いだ家まではさらに10分程度平行移動すればたどりつける。その家から豊郷駅までは今度は山手から下り道よろしく20分程度降りて来れば良かった。あとで地図で確かめてみると、まさしく二つの駅が底辺で義弟の家と義妹の家が上辺の台形上をなしていることに気づく。台形の底辺を除く三辺を自転車、底辺が電車という訳だ。お土産を駕篭に入れながらの移動だったので雨が心配だったが、まさしく高宮駅を降り立ち家まで2、3分の区間でパラパラっと降られただけであった。絶妙のタイミングということばが思わず口の端に上る。

絶妙と言えば、もう一つその日あった出来事を記しておく。近江八幡の会食は先に記した通りであるが、そのおりのことだった。日頃良く存じ上げている方が私の右二人向こうにおられ、私の右隣の方と話しておられ、私は私で左隣の方と話に夢中だった。ところがしばらくあってその知人の「私のいのちの恩人は何々大学の○○○先生です」という声が急に聞こえて来た。そう言えば、一年ほど前、この方が倒れ、奥様も大変心配し、皆で祈ったことがある。その時の話だった。「適切な診断を○○○先生がしたのです」と強調されているのだ。思わず耳を疑った、それは私のいとこの名前であったからである。その方の話の輪に割り込んだ形になったが余りにも突然の展開に先方の方もびっくりされた。しかし、考えてみると義母も直接は執刀していただかなかったが、やはり知らずにそれこそ先ほどの豊郷の病院から、彼のいる病院に担ぎ込まれ色々お世話になったのは二年半ほど前であった。何ヶ月か前には彼のお母さんの葬儀に出席したばかりだった。主は私の首根っこをつかまえ、「あなたは義弟、義妹のことばかりわたしに言っていますが、ここにもわたしの愛する人がいますよ」とその方を通して語られた思いであった。これも私にとってはこの日のもう一つの主がくださった絶妙のタイミングであった、と言えよう。

フリー切符は一日乗り放題である。近江線で言えば米原から貴生川まで、湖北の一角から湖南まで自由自在に何度も乗れる。しかも自転車持ち込みOKである。いくつもの台形を頭に湖岸やあるいは逆に鈴鹿山系へと描きながら電車に乗り、自転車を走らせ農山村を満喫できる。大挙して訪れるほどの観光地ではないが、自然の風物と往時の歴史を想像しながらのんびりとすごせるのが近江路の魅力でないだろうか。

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。(旧約聖書 伝道3:11)

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