2011年6月3日金曜日

パンドラの箱

いとこは数理工学を学んだ。今もその分野の専門家ではないか。そのいとこが同じ学問を専攻した鳩山さんの総理就任には大いに期待していたが、がっかりした、と言ったことがある。何とも良く分からないのが、今回の鳩山氏の変節ぶりだ。君子豹変すると言うより、変幻自在で、誰しも政治には愛想を尽かすことであろう。毎日新聞は「罪深いゲームの果て」と一面に意見記事を載せている。ゲーム理論と言えば、学問になるのかもしれないが、こういう権力闘争が果たして政治なのか、疑問を持つ。

そんなことを思って今朝の東京新聞を読んでいたら、菅降ろしには原発が関与しているという特集記事があった。浜岡原発のストップなど電力業界の意向を考えず、タブーの分野に市民運動家出身の菅が手を突っ込んだからたまらない、与野党一致して菅降ろしがこの頃から始まったという分析である。

そういうこともあるのか、という思いがしたが、真相は分からない。その記事を読んでいたら、中曽根氏の原子力基本法の制定のいきさつも載せてあった。中曽根氏は確か初代科学技術庁長官だったと思う。私もその頃はいっぱしの原子力少年であった。原子の中身を明らかにしたい、湯川さんに続けと貧しい日本がペンとノートで世界に伍して行けるという風潮もあったように思う。中学校の図書館にはVロケットを編み出したブラウンにちなんでの物理の本があり、大変興味を持ち、物理学を目指そうとした。

夢破れて、全く原子の世界からは遠ざかったが、今日このような状況で日々放射能を恐れて生きなければならないとは、久しぶりに原子の問題、それも全く違った角度から考え込まされる。かつて理論物理学者のアインシュタインや朝永氏たちが懸命に訴えた悲痛な罪は、原子力の平和利用には生かされていたと思うのだが一体何だったのかもう一度確かめてみたい思いがする。

東電の中にも今の政治家の中にも、かつて若き時描いた少年の思いと今の現実との余りのギャップの差に、がくぜんとしながらも日夜奮闘されている方も多いと思う。何よりも苦しんでおられる住民の方に寄り添いながら必死で方策を考えておられる町長さん初め役場の吏員さん一人一人、また今も福島原発のメルトダウン防止のために現場で働いておられる方々に心から敬意を表したい。

政治の信頼、政治家への信頼をなくしたくない。日経は「政治は対立する利害を調整し接点を見いだす技術のはずだ。その真価が問われる。」と政治部長の署名入りの記事で結んでいた。夏に向かい、たちまち首都圏では節電が個々人にとって喫緊の課題になるであろう。一人一人も快適生活を求めてパンドラの箱を開けたアトムの罪を共有せざるを得ない。

彼らは、わたしの民の娘の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ。』 と言っている。「刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。それなのに、私たちは救われない。」(旧約聖書 エレミヤ8:11、8:20)

0 件のコメント:

コメントを投稿