2014年10月10日金曜日

比類なき導き手である主(下)

夕空に 父母夫 想う人 三井文庫を 我と歩めり  2014.10.7
シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。そしてわたしはそれに反対しません。

これはまことに厳しく、辛いことですけれど、あなたが破産してほんとうに自分自身に絶望するためには、どうしても必要なことです。ここで注意していただきたいことは、いろいろな人格の順番、あるいは順序ですね。ここの聖句によると、「悪魔」、わたし・すなわち「イエス様」、そしてあなた・すなわち「シモン・ペテロ」およびあなたの兄弟たち。こういう順番となっています。

主は、ペテロに、ペテロを通して、彼の兄弟たちを強めようと思われました。結局、ペテロを用いられる器として用いたかったのです。けれども、そのためにはペテロは砕かれることがどうしても必要でした。そのために、悪魔がペテロを攻撃することになるのですが、けれどもその時でも主は絶えずペテロのために祈って下さいました。したがって、サタンは自分がしたいことを何でもするということはできません。私たちは完全に主の御手の中にいるのであり、それは永遠の安全を意味しています。それですから、主は悪魔とペテロの間にお立ちになられたのです。

ペテロはほんとうにすべて失敗してしまいました。彼は最後の土壇場に立たされていました。そこにはもはや一条の希望の光も射し込まず、すべての望みが消え失せた、全く絶望的な状態が支配しました。しかし、この訓練は「偶然」ではなかった。どうしても必要でした。ペテロはもはや自分の力に依り頼むことができなくなりました。そこから初めて主はペテロをお用いになることが出来るようになりました。その良い例が、もちろんみなさんご存知です。五旬節です。その時、ペテロは、ペテロを通して、三千人以上の人々が福音を聞いただけでなく、導かれ救われたのです。

もう一つの実例はパウロなのではないでしょうか。パウロもペテロと同じように深みを通って行きました。すなわち、三日間暗闇の中に生きたのです。そのことをあとになって、パウロは次のように証したのです。ちょっと見てみましょうか。コリント第二の手紙の3章になります。318頁です。コリント第二の手紙3章5節、6節。

何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。(と、パウロは正直に告白したのです。)神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。(と、書いたのですね)

私たちはみな実を結ぶ秘訣を知っています。すなわち、自分自身を否定し、自分に対して死ぬことです。有名なヨハネ伝12章の24節、みなさん暗記していることばだと思いますけれど、引用します。ヨハネ伝12章の24節。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

どこにも多くの重荷に喘いでいる人、いかなる逃れ道をも見出せず、絶望的な状態になっている人がいます。 どうして私はこんなにたくさんの困難や問題を経験しなければならないなのか、どうして私は失敗してしまうなのでしょうか。恐らく、それはまだ救いの確信を持たず、イエス様こそ私のもの、かけがえの無いものと言うことができないからではないでしょうか。もしかすると、それはあなたの救い主があなたをご自分に似た者に造り変えようとしておられるからではないでしょうか。

たいせつなのは救われることだけではなく、主をよりよく知ることです、きよめられることです。あるいは、それはあなたが今まで主を利用しようとしていたかもしれない。けれども、今や主があなたを主の御手の中で御自身の器として用いたいと思っておられるので(はないで)しょうか。

もう一ヵ所、旧約聖書から読みます。申命記、旧約聖書の292頁になります。292頁です。申命記の8章15節です。

燃える蛇やさそりのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない、かわききった地を通らせ、堅い岩から、あなたのために水を流れ出させ(る、主とあります)

道を塞ぐ岩、すなわち障碍物から、あるいは理解できない困難や、私たちが甘受しなければならない心痛、すなわち心の痛み、これらのものから主は水を湧かせようとしておられます。このような経験を通して私たちは主の身許に行くのであり、このような経験を通して私たちは祝福され得るために祝されまたいのちを与えられるものです。生ける水は川となって我らより出ずるべし、と書いています。

旧約時代に主はご自分の民に向かって次のように言わなければならなかったのです。今度はエレミヤ記の二章、1137頁になりますが、2章の13節

わたしの民は二つの悪を行なった。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。

もう一ヵ所、同じくエレミヤ記の17章13節を見ると次のように書いてあります。

イスラエルの望みである主よ。あなたを捨てる者は、みな恥を見ます。「わたしから離れ去る者は、地にその名がしるされる。いのちの水の泉、主を捨てたからだ。」

わが民!わが民は二つの罪を犯す。一つは湧き水の泉であるわたしを捨てたこと。第二は水をためることの出来ないこわれた水溜を自分たちのために掘ったと。このように主は悔い改めて立ち帰ることを呼ばわれました。

イエス様を知らない人々は悔い改めて主の身許に立ち帰らなければなりません。救われるためです。イエス様を知るようになった人々は、主のうちにとどまるため、また用いられる道具となるために悔い改めて立ち帰らなければなりません。イエス様のうちにとどまる者だけが、主と結びついているのであり、このいのちの泉の通り良き管となることによってイエス様は御自身をあらわすことがお出来になるのです。

今のこの時の試練はまさに死後の世界に至るための準備期間のものに他ならない。主は何物も御手から失いません。主はとこしえにすべてを支配なさるお方です。暗やみの夜にも困難な涙の時にも、主の御手は私たちを守って下さいます。失望落胆した心も慰められ、喜ぶことができます。なぜならば、主はとこしえに主であられるからです。そして、主は決して過ちを犯しません。私たちが理解できないことがたくさんあるとしても、主は我々にとって最も益となることを考えていて下さるのです。

最後にもう二ヵ所ほど読んで終わります。ロマ書8章の18節です。

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

すばらしいパウロの告白ですね。もう一ヵ所、今度はコリント第二の手紙4章、319頁になります。コリント第二の手紙4章の8節から10節までお読みいたします。319頁。

私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。

16節
ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

もう一ヵ所、ハバクク書3章。多くの人々の大好きなことばの一つになっています。1411頁です。3章の17節から19節までお読みいたします。

そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。(結局、こんなことが全部私の身にふりかかってくるのだ、もう大変だよ、ハバククはそう思わなかったネ。18節。)しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。

毎日の戦いの中でこの断固たる態度をとることができれば、「主は生きておられる、主の御臨在はもう十分です」という態度を取ることができるようになります。

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