2015年2月7日土曜日

「歩きなさい」

アオサギ?(2015.2.6 倉松川縁り)

 昨年の11月中旬から左腰が急に痛み、心配のあまり、整形外科で見てもらった。レントゲン撮影の結果、腰部の一番下の骨と骨の間隔が他の箇所とはちがって極端に狭まっており、「この隙間がないためにそのような症状が出ています。湿布薬をあげましょう。もし痛みが増すなら、さらに痛み止めの薬を出しましょう。」と言われて帰って来た。ところが、その後も痛みは増すばかりで、今度は腰だけでなく、左足にまで痛みが広がり始めた。再び病院に駆けつけた。こちらの再度の訴えに対してほぼ同じ答えが戻ってきて、痛みが出ないような姿勢を探してみることですね、とも言われた。

 かれこれするうちに、痛みは一段と激しくなり、どうすることもできずお手上げ状態になった。その折、ふっと数年前にやはり足腰が立たず、一歩も歩けなくなった時に治療に通った接骨院のことを思い出した。当時ほとんど歩けない状態であったが、その接骨院では歩くことを勧められた。「とにかく歩くことですね」と言われた。歩けないで困っているのに、「歩け」とは何という患者に対する助言であろうかとも思ったが、その接骨院の先生は私とは信仰をともにする主にある兄弟という互に信頼できる間柄であったので、素直にしたがった。もちろん、その間も針治療を試みたり、電気治療を行なったりしてもらった。そしていつの間にか、多分一二ヵ月かかったように記憶するが、歩けるようになり、家に閉じこもり前途を悲観するばかりであった私が物の見事回復した。その経験を思い出したのだ。

 今回も再び彼のところに助けを求めて駆け込んだ。その時はすでに12月に入っており、いよいよ冬の寒さに突入する頃であった。しかし私にとって、まさしく「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。」(マタイ9・12)の心境で何とか救い出して欲しいという思いがしきりだった。私がする腰痛の症状、整形外科での診断の説明をしばらく聞いた後、彼は私の腰痛の原因は仙腸関節がバランスを崩したことによると説明してくれた。そしてそれ以後、電気治療、ウオーターベッドによる体幹治療をふくめ、入念なマッサージを受け入れることになった。それから今日までほぼ二ヵ月間通い続けている。ところが昨日はいつになく調子がよく、自転車でその接骨院にまで片道50分足らずの距離を、往復し帰って来てもそれほど苦にならない程度に回復した。

 治療を受けながら、思わず、彼に「最近症状が大分改善されて来た。どうしてなんでしょうね。」 と問うてみた。それに対して帰って来た答えは「そうですか、治療の成果があらわれてきたんですね」という答えでなく、意外な答えが戻って来た。「それは腰に力がついて来たからですよ。歩かれたせいですよ。私たちのからだには様々な機能が備わっていて、仙腸関節のバランスも歩くことによって保たれるように備えられているのですよ。不思議ですね。そのように人のからだは神様によって造られているのですよ、現代人はそのことを忘れていますね。もし人々がもっと歩くことを心がけたら、今の医療費は随分少なくなり、病院もはやらなくなりますね。神様は私たちに歩くことを始めとして、様々なからだの機能を保てるように備えてくださっているのですよ。」

 聞いていてなるほどだと思って聞いていた。製造者は製品の一切を熟知している。私たちのからだは創造主である神様が造られた。そのお方の創造のわざは私たちの想像を超えている。治療はそのことを謙虚に知りながらする医療行為に過ぎないという思いが伝わって来て、彼の治療への感謝と同時に、私には創造主がいかなる時にも必要な助けを与えてくださっている方だという言いようのない感謝の思いに、満たされたからである。それは、ここ数日来朝夕読んでいるスポルジョンの霊想をとおして導かれている感謝と相通ずるものを感じたからである。次の箇所もその一つと言えなくはないのでなかろうか。

 その箇所を書き写してみる。2月4日の「朝ごと」にからの抜粋(松代幸太郎氏の訳)である。

 主がこれを愛せられる。(ホセア3・1 口語訳)

 主にある友よ。あなたの経験をかえりみて、主なる神が荒野であなたを導かれた方法を考えよ。どのようにして神が、あなたに日ごとに衣食を与えられたか。どのように神が、あなたの不都合な行為をしのばれたか。どのように神が、あなたのつぶやき、エジプトでの美食へのあこがれを聞き捨てにされたか。また岩を開きあなたを助け、天よりマナを降らせてあなたを養われたかを思え。すべてのあなたの悩みの時において、神の恵みがいかに満ち満ちていたかを考えよ。

 神の血潮があなたのすべての罪のゆるしとなり、神のむちと神の杖がどれほどあなたを慰めたかを思え。このように過去における神の愛をかえりみてのちに、信仰をもって神の将来における愛を展望せよ。なぜならキリストの約束と血潮は、ただ過去に属するばかりではないからである。あなたを愛し、あなたの罪をゆるすことを続けられる。

 たましいよ、あなたの愛は新たにされないのか。あなたはさらにいっそうイエスを愛するに至らないか。あなたが無限の愛の平原を飛んでゆくとき、あなたの心は燃え、あなたの主なる神の御手のうちにある喜びを感じないか。たしかに私たちが主の愛を思う時、私たちの心は内に燃え、私たちはいよいよ深く主を愛するに至るのである 。

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