2019年3月16日土曜日

1969年3月12日(4)


私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(2コリント5・20後半〜21)

 ところで、私の病床生活は、篝火(かがりび)の聖書が枕辺にあったとは言え、相変わらず全くわがままそのものの生活であった。第一、突然の事故にびっくりして、いち早く滋賀から見舞いにかけつけた継母を、私は事もあろうにすぐに追い返し、「今必要なのはあなたが反対している婚約者だ」とまで言い切る始末だった。継母はこの私の心ならぬ言動に、全く心の深いところを傷つけられたまま、来た道をその足で即座に帰らざるを得なかった。以後20年余りの間、私はこのことをふくめて自身の大きな罪の刈り取りをなさねばならなかった。

 一方婚約者の願いで鴻巣からわざわざ見舞いに来てくださった牧師さん(※)に対しても居丈高(いたけだか)な態度で終始した。あなたの言うキリスト教などは受けつけないよ、という態度であったからである。そのくせ私の病床を慰めたのはバッハの様々な楽曲であった。ブランデンブルク協奏曲、無伴奏チェロ組曲などを小さな卓上プレーヤーで何度も聞いた。しかしそれはヨーロッパ思想の一翼としてのキリスト教文化に浸っていると言う感覚的なものに過ぎなかった。

 6月過ぎにやっと退院できた。相変わらず、首にコルセットをつけていたが、婚約者の勧めもあって遠く鴻巣まで電車、バスなどを乗り継いで教会に通った。もちろんいつも座る場所は一番後ろであり、信じたいのはやまやまなのだが、一方でそう簡単には信じないぞと言う知的貴族を装っており、傲慢そのものであった。でも牧師の聖書の話には批判的であっても、聖書そのもののことばには私をとらえてやまないものが徐々に出て来た。こうして婚約者とも聖書を共通項とする手紙のやりとりができるようになった。

 それまではもっぱら婚約者が書いてくる信仰の勧めに対して、私は自分自身で探求して来た古今東西の思想家の言を盾にして私の思想を説きすすめ、双方の手紙の主張は信者と未信者のそれとして対立したままで、こと信仰に関しては平行線を繰り返すのみだった。唯一、二人を取り持ったのは互いの「愛」だけであった。ところが、この愛は当時私が気づいていなかっただけで、本質において全く相反する愛であった。私の愛は惜しみなく奪う自己中心の愛であるのに対して、婚約者の愛は主なる神様から流れ出てくる愛であった。この愛の綱引きのうちに、私はいつしか自己の良心が許さず、婚約者の前に自分の罪を言い表さざるを得なくなった。 

 帰って来た返答は自分もあなたと同じ罪人の一人だ。私の罪もあなたの罪も、神様の御子であるイエス様が「代わりに」罰を受けて十字架上で死なれたので、もう赦されている。だからイエス様に重荷(良心の呵責という)を下ろしてくださいという心からする慰めのことばであった。私にとって婚約者が私の罪をそのまま受け入れてくれたことは極めてありがたかったが、その赦しがどうしてイエス・キリストと関係があるのかわからなかった。わからないまま、許されたから、これでいよいよ結婚できると喜んでいたのだ。

 そうした挙句、最初に飛び込んできたのが、この彼女のキリスト信仰が祖先以来何代も続き、宗門改帳を管理し伝統を重んずる庄屋を出自とした彼女の家で大問題になり、ひいては嫁ぎ先である私の両親もそのようなキリスト信者は到底受け入れられないという具合に、両家・親族を巻き込んでの猛反対に発展して行った出来事である。それは何とか、彼女にキリスト信仰の看板を下ろさせようとする動きとなり、それに抵抗する彼女はとうとう私との結婚を断念するという事態にまで追い詰められていたのであった。事情が事情だけにそれぞれが(両親、私たち)苦しみ抜いた結婚騒動となった。

 こうして、その手紙を受けて進退窮まった私を待ち受けていたのが、50年前の3月12日の大雪であり、私の交通事故と上からなされたとしか言えない急速な事態の進展であった。しかし、振り返ってみれば、何よりもこの出来事は、後年、全家族を主イエス様の救いへと導く導火線となる、貴重な出来事であった。それには先ず、己が罪に汚れに汚れ切っていた私が、そのままの姿で生けるまことの神様の前に白旗を上げて全面降伏しなければならなかったのであった。

(※家内はこの勝山出身の牧師さんの妹君を通して信仰に導かれた。またこの方は私のかつての親友の大学の先輩でもあり、「主は生きておられる」50号62頁所載の方のお父様がこの方の高校時代の先生であったが、昨年召された。私の救いのために当初から祈って下さった方である。)

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