白鷺を 追いつつ歩む 楽しさよ 古利根川を 妻と語らう |
兄弟クワルトもよろしくと言っています。(ロマ書16・23)
あっと言う間に大晦日を迎えてしまった。今年は「自己嫌悪」の思いが強くなり、このブログは8月以来、投稿しなくなった。ブログを始めたのは、泉あるところ1(2008年 6月開始)からなのだが、この12年間でもっとも投稿数の少ない年になってしまった。
その原因としては「自己嫌悪」の他に、カーライルのクロムエルの紹介について確たるものが自身の内に持てなくなったことがある。そんなおり、二日ほど前に、内村鑑三の「ロマ書の研究(下)」を読んでいたら、たまたま次の文章に出会った。(同書第58講パウロの友人録より引用)
カーライルのクロンウエル伝は、世にある伝記中の最も優秀なものであろう。彼はクロンウエルの書簡と演説をできるだけ多く蒐集(しゅうしゅう)し、それに説明を加えて、読者の了解に便ならしめて、これを世に提供したのである。ゆえに、題して『クロンウエル伝』といわず、『クロンウエルの書簡および演説』という。けだし彼もし自己の筆をもってクロンウエルの生涯をえがきださんか、読者はカーライルを通してクロンウエルを知ることとなりて、その知識は間接なるをまぬかれないであろう。
しかし、もしクロンウエルの書簡と演説とをそのまま読者に提出するときは、人々は直ちにクロンウエルの姿に接するを得て、その知識は直接かつ純粋なるを得るであろう。カーライルはかく考えしゆえ、わざと自己を隠して、もっぱらクロンウエルだけを人の前に提出したのである。これ彼のクロンウエル伝の特に貴き理由である。まことに人の手紙ほどその人をよく表わすものはない。
ロマ書のごときは一つの系統ある思想の大なる発表であるが、最後にこれら人名録を見て、これが一つの書簡としてこれらの人々に送られしものなることを知りて、この書が単なる論文にあらずして、生ける人より生ける人に送られし一つの生ける消息であることを知るのである。実にこの人名録はロマ書の価値と性質とを示すものである。
もとより、以上の内村の文章は、ロマ書の本質を示すにありて、カーライルの「クロンウエル伝」への言及は単なる傍証として用いたに過ぎない。が、近頃、読んだ文章の中では私にとり、一服の清涼剤の役目を果たしてくれた。それはクロムエルに注目したことは間違いでなかったと思ったからである。また、ロマ書は毎日でも読むべきだとはかつてベック兄の書かれた書物(『神の愛』)で読んだことがある。その時、こんなむつかしい文章をと思っていたが、パウロのローマ人に宛てた手紙は(他の手紙もそうだし、聖書全体がすでにそうなのだが・・・)内村も言うごとく、生ける人の生ける人に送られた生ける消息であったことをこの年末ほんの少しだが、聖書通読の際に体験することができたからである。
コロナ禍で始まり、大変なコロナ禍で年を越し、ますます人と人との接触が難しくなる中、パウロが「兄弟クワルトもよろしくと言っています」と一切の肩書き抜きのクワルトを、わが「兄弟」として(しかし、これこそ最大の賛辞である)ローマの愛する人々に紹介して書簡を閉じていることに大きな励ましをいただいた。新しい年、愛する方々を今まで以上に覚え、ともに心から主を賛美したい。
この素晴らしいブログの再会を、心待ちにしていました。
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