2023年10月11日水曜日

いよいよ秋本番


赤蜻蛉 良くぞ生きたり 利根堤
 先日、この欄でも紹介したように、時ならず、白鳥が古利根川にあらわれた。その後、どうしたかわからない。埼玉新聞の報道によると、どなたか飼い主の方の手を離れて飛来したか、ということでもあった。一方、北国の方の随筆に「白鳥が遠くシベリアから群れをなして日本列島に飛来する」旨の叙述があった(※)。飛来する白鳥が本来の姿なのかと思わされた。

 ほぼその同じ頃、古利根川の堤に一匹の赤蜻蛉が風にゆられながらもしっかりと草花の木に留まっている姿を目撃した。赤蜻蛉とは言え、何か弱々しい感じさえした。けれどもその羽根は夕日に当たって限りなく美しかった。自然界をとおして神様はこうしてあらゆる恵みをくださっていると思った。

 ところで、今朝の聖書通読はヨブ記25章から27章だったが、並行して読んでいるF.B.マイヤーの『きょうの力』に、これはと思う文章(ヨブ記26章に触れる)があったので、以下転写する。

 ヨブは上を仰いで神の造りたまえる宇宙の広大・精妙を思い、空をおおう雲の驚くべき機構を描き、目を地に転じては、大地を震わせ、海洋を制圧する大いなる神の力を展示します。
 そして、実はこれらも神の威光のほんの一端でしかなく、神のささやき程度しかない。ああこれがささやきだとしたら、そのとどろきに至っては! と驚嘆するのです。
 しかるに、今日の私たちは、この旧約時代のヨブよりも神の威光を知っています。というのは、神の造りたまえる自然によるばかりでなく、人となりたもうた神ご自身を知っているからです。イエスこそは神の知識であり、能力なのです。しかも、私たちは、神の全知・全能が、ただに空を広げ大地を震わせ、海を制する強大さではなくて、”愛”のそれであることを、イエス・キリストの十字架において知り得ているのです! 大空を仰いで神を恐れる私たちは、イエス・キリストによって、神と親しむことができるのです!
              (『きょうの力』312頁より引用)

 前のブログ写真でお示しした「ひかり幼稚園」のかかげている「十字架」は単につつましいものではない。”愛”なのである、と気づいた。

※かく、書いたがうろ覚えであり、確かめたら次のような美しい文章であった。「春先には白鳥の群が鉤の手状になって、かなり低空で、さようならと言うように大きな声で鳴きかわしながら北へ帰っていく。感動的だ。彼らのこの先の長旅を思い、その安全を祈りながら、声が聞こえなくなるまで、つい見送ってしまう。」(『「私」を受け入れて生きる』末盛千枝子著2頁)

私たちはただ、神についてのささやきしか聞いていない。だれが、その力ある雷を聞き分けようか。(旧約聖書 ヨブ記26章14節)
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(新約聖書 ヨハネの福音書3章16節)

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