2015年12月24日木曜日

「和解」のものがたりの始まり

葬儀のあと談笑する兄弟たち


 何年前のことであったろうか。恐らく10年くらい前のことであったと記憶する。今しも家庭集会が開かれんとする時であった。三人の方が乗り込んで来られ、その集会が解散されざるを得なくなったことがあった。しかも、その三人の方は、家庭集会を開こうとされていた当のご主人のご両親と妹さんであったから異常であった。

 そこには私だけでなく何人もの方々が集会があると言うので集まっていたので、それぞれの心に強烈にその時のことが刻印されているはずだ。もちろん事前にそのことは知らされていたので、私達はその集会が無事に持たれますように祈って参加していた。しかし、三人の方は、私達を大向こうにまわし、その場に居座り、キリスト(信仰)によって自分たちの親子関係が全く駄目になったことを指弾し、今から即刻キリストから離れろというすさまじい剣幕だった。私達は家族間の争いなので、恐怖心を覚えながらも遠巻きに見守るしかなかった。

 逆に家族間の愛情がいかに深いものであるかの片鱗を垣間みた思いだった。ところがその三人の方は今いずれもおられない。と言うより、天の御国に凱旋された。一番早く召されたのは妹さん、次に昨年のお母さん、そしてこの12月11日にお父さんが召された。そしてそのご葬儀が今週の日曜日に行われた。

 葬儀は無宗教の聖書に基づく葬儀であった。私はこの葬儀を前にして、しばしこの葬儀は「奇跡」だと、何度も思わずにはおられなかった。一家は韓国人であったが日本で生を受け、一旦は韓国へ帰りながら、1955年12月24日のクリスマスイブの日、ちょうど今から60年前日本に来られたのであった。そして7人のお子さん方をそれぞれ最高学府にまで学ばせ、立派に育て上げられた。

 ところが、お父さんは何よりも日本人が嫌いであった。長年日本人から差別されひどい仕打ちを受けた心の傷がそうさせた。そのご長男が日本人と結婚された。ご両親は烈火の如く怒られた。その上、お嫁さんはその後キリスト信仰に導かれた。ご両親の迫害はますます激しくなった。

 果てることのない争いの中でご夫妻が祈っておられたことは家族の救いであった。私達はこのご夫妻とはかれこれ20数年のご交誼をいただいているが、もともとは奥様が信仰をもたれたことによる。その時、ご主人は頑として福音を拒まれていた。いかなる説得も無理であった。その後ご主人があっという間に信仰をいただかれた。このことも奇跡であった。そして冒頭の出来事はそのご夫妻が家庭集会を開かれようとされている最中に起きたことであった。

 今週の日曜日に行われた、お父さんの葬儀の中でご長男は遺族を代表して概略次のように述べられた。 「父は家族を何よりも愛していました。困難な中で自分たち子どもを育て上げるのに精魂傾けてくれました。その愛が自分たちの結婚により裏切られたと思い、迫害を加えてきました。子どもたち皆んなから背かれた父は、晩年自分が加えた迫害を悔い改め何とか和解したいと思っていました。もう身を起こすこともできなく弱り果てた父を抱きしめたとき、『おまえは一番の親孝行者だ、世界一の親孝行者だ』と言ってくれました。自分は何一つ親孝行らしきことはできませんでした。でもかつて自分たちがキリスト信仰を持った時、一番の親不幸者だとののしっていた父がこのように変えられたのはただ主イエス様の愛のお陰だと心から感謝しています。今は父になりかわって、父からひどい仕打ちを受けた弟たちに謝ります」

 主イエス様は民族間の対立、家族間の争い、すべての人間の罪に終止符を打つべく神の御子であったが人となって来られた。その生きた証を受け入れられた一家の証を短くまとめさせたいただいた。

やみと死の陰に座す者、悩みと鉄のかせとに縛られている者、彼らは、神のことばに逆らい、いと高き方のさとしを侮ったのである。それゆえ主は苦役をもって彼らの心を低くされた。彼らはよろけたが、だれも助けなかった。この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。主は彼らをやみと死の陰から連れ出し、彼らのかせを打ち砕かれた。彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。まことに主は青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきを粉々に砕かれた。(詩篇107・10〜16)

2015年12月21日月曜日

犬も歩けば棒に当たる

 思いをば 字を連ねる 喜びよ 時経つままに 媼語りき 

 郵便ポストは近くに三ヵ所。5、6分の距離だ。本局は少し離れているが、20分ほど歩けばたどり着く。散歩にはいい距離だ。しかし、このところ寒くなって来て、余り遠くまで行きたくない。ために近くを利用した。三ヵ所のうちどれにするかは自由だが、それぞれ集荷時間は異なる。「エーィッ、儘(まま)よ」とばかりに、普段余り行かないところを今日は選んだ。ところが、ポストに近づくと同時に郵便局の赤い車が向こう側から集荷に来た。こちらはお客様、投函するのを見届けるかのように丁寧に礼をされた。グッドタイミングだった。一体何時に集荷に来られるんだろうとポストの横掲示を見たら、15時38分ごろと明記してあった。腕時計を確かめてみるとまさしくその時間だった。一分でも遅かったら、手紙は暗いポスト内で一晩過ごすところだった。今更ラブレターではないので少々遅れても、どうと言うことはないが、早く届けたいのは人情ではないか。

 私は、一般に外出する先で、思わぬ人と遭遇することが多い。それも大体がグッドタイミングである。しかも一度や二度ではないので、外出し帰宅するや早々、私の口から出ることばの一つに、「今日、誰と会ったか、わかる?」というなぞかけがある。これには私よりはるかに外に出る機会の多い家内の方が舌を巻く。犬も歩けば棒に当たると言うが、比較的人に会う確率が高い私は何と言えばいいのだろうか。私は犬なのだろうか?犬は犬でもどんな犬なのか、家内と二人で分析をするが、結論が出ない。ただ人一倍、私が人を見分ける力を主からいただいているところにあるようだと言うのが当面の互いの結論であった。つい先だっても、銀行でお金を下ろし、いったん左側に自転車を振り向けながら、思わず別の用事を思い出し、右側に振り向けた途端に向こう側からやってきた目深に帽子をかぶった方とすれ違った。

 紛れもない、K氏であった。K氏とは数年来同じ町にいながら、引っ越しされたこともあり、またお忙しい方であったのでお会いすることはなかった。声をかけたら、先方も気づかれ、「オッ」とばかりに自転車を脇に差し置いて道路の端で互いに立ち話を始めてしまった。K氏の近況と数年前に出版された本の事などをお伺いした。昨年の四月からは慣れないパソコンの練習を兼ね、週一回程度ブログをとおして雑感を書いているという話もされた。何十年も前のこと、初対面の際、私の卒論のテーマとK氏の学問領域が重なるところがあり、互いに興味関心を覚えたものだ。それ以来お会いしたのは数えるほどしかない。その方と路上でお会いしたのだ。

 その数日後、K氏の御母堂が103歳で召されたことを知った。早速、新しいK氏のお宅を探し弔問に出かけた。御母堂は100歳にしてイエス様が第一と言われるようなったとは、K氏の奥様からお聞きし驚かされたことだが、大変な生命力のあるお方だった。もし数日前の出会いがなかったら、このように即刻お訪ねする気にもならなかったかもしれない。しかし、それだけでなくその後数日足らずのある日、郵便局の窓口で切手を買っていたら、隣の方から肩を叩かれた。誰かと振り向けば、当のK氏であった。御母堂の召天のため、急遽喪中の葉書を作成し投函に来られたということだった。この場合はK氏が私を見当てられたのだ。少し年来の謎が解けたように思う。なぜなら、K氏は大学の先生で、私は高校の教師、ひょっとすると教師稼業が人様を識別する力を与えるのかも知れないと思うたからである。

 12月になってから勘定してみたら、私はこのK氏をふくめ、すでに数名の方々と路上やスーパーや図書館でお会いしていた。この他、私にとってもっとも出会いの多い稼ぎどころの場所は何と言っても電車内である。今回は10月、11月 の新幹線内での劇的な出会いがあったせいか、週一回吉祥寺へ出かける電車内でも不思議と出会いはない。しかし、結局のところ、このようにして、今年もかつてお交わりを親しくいただいた方々とお出会いすることができたが、これは、一重に、本来寂しがりやの私を良く知っておられる主なる神様が、様々に過去出会った方々を忘れないようにと出会わせてくださった摂理にあるのでなないかとも思う。

 考えてみたら、今年は私の干支の「羊」の年であった。私はまぎれもなく犬でなく、羊である。羊は羊飼いに飼われて初めて一人前だ。それゆえ羊が当たるのは決して「棒」ではない。いつも牧草を羊飼いによって与えられているからだ。その羊が同じ羊と出会って飼い主をあがめればこれほど幸いなことはない。もっともっと多くの羊に会いたい。私が今年新しく知遇を得た方はご自身のことを親鸞にあやかって「愚石」と称される。私は飼い主イエス様に導かれるstraysheepだと思い、数年前からこのブログ(泉あるところ1、Ⅱ、Ⅲ)を展開しているが、語呂がよくないことを承知で、最近その方の真似をして「迷羊」と名乗っている。羊年も残り少なくなった。昨日お交わりできた老婦人は孤独の中、字を書くことにより励ましを得ておられる。そこに出会いの根源のお方を一筆「イエス様」と書き込まれた。私もまた彼女のごとく、羊飼いから目を離さず生きたいものだ。

主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。(エレミヤ31・3) 

2015年12月17日木曜日

亀井勝一郎とその年譜

「春」吉岡賢一作

 亀井勝一郎のことについて書いてみたい。そもそも亀井勝一郎のことを思い出したのは、栃木県の足利にいる友人がJR彦根駅から一枚のはがきを寄越した奇縁によるものだった。駅頭は私の好む場所の一つである。なぜかと言えば、そこで思わぬ人と出会うことができるからである。ましてその友人が降り立ったその日、私も故郷の彦根駅を乗り降りしていたからである。別々の計画をもって、関東くんだりから彦根駅にたどりついた二人が出会ったとしたらこれ以上の奇遇はなかったであろう。しかしそうはならなかったのはまさしく天の配剤であった。天の配剤は友人がそのあと、大阪フィルのショスタコーヴィチの演奏会に無事に出席することであり、私にとっては一人降りたった友人を想い、遠い昔高校時代に駅頭に佇んでいた亀井勝一郎氏の存在を思い出させることにあったのだ。

 それが何年のいつごろか、定かではなかった。しかし、春ではなかった。コートを着ておられた長身の同氏の印象からすると、晩秋から初冬にかけてではないかと思っていた。しかし確たる自信はなかった。むしろ幻想ではないかという思いもなきにしもあらずだった。このことを思い出して以来、自分でも本当なのか確かめてみたくなり、県立図書館から亀井勝一郎全集補巻三を取り寄せていた。果たせるかな、次の記録を見つけることができた。

昭和35年(1960) 53歳
11月、彦根、多治見、木曽福島などで講演。「続歴史の旅」(人物往来社)を監修。この年、「安保批判の会」世話人となり、安保反対運動にも参加するなど多忙をきわめた。

 彦根駅の上りホームで見かけたのは、私の高校三年の11月であったことがこれではっきりした。しかも下りホームでなく上りホームと言うのも、多治見、木曽福島というコースと一致している。幻想でなく、まさしく事実であった。それと同時に意外な事実も新たに知った。それは彼が安保反対運動に熱心だったことだ。してみると、彼の精神は高揚していたはずだ。しかし私の印象は静謐そのものだったことは「天の配剤」(11/29のブログ)で書いた通りである。それを裏付けるかのような記述があった。桶谷秀昭の評だ。

 亀井勝一郎ほど不良少年になる可能性の少ない人間は、昭和の文士の中でもあまりいないのではあるまいか。あの端正な風貌は、優等生の冷たさはないが、身を持ち崩すという可能性を想像する余地はない。ただあの温和な端正な風貌に一つ感じられるのは、身の置きどころのないような含羞の翳であり、自分のもって生まれた長所にきわめて鋭敏につまずく人の困惑の表情である。(『日本人の自伝』18巻平凡社473頁より)

 さらに年譜を見ると、函館生まれだと言うことも初めて知った。

 母の先夫は函館商業の出身であり、私は幼い時からその先夫のアルバムを見て育っていた。函館の近くの森町は、滋賀県に家を持ちながら、その地でも米屋という商売をしていた近江商人の端くれとしての生家の土地でもあった。先夫の残した書物は内地に引き上げた母が持ち帰り、高校時代の私の好奇心を満たすに十分な数冊の思想書であった。母は私に先夫は軍に殺されたと言っていた(実際は戦死であったが)。

 一方、私にとって亀井勝一郎は青春のほろ苦い思い出(「運動」から意識的に離れた時期)と連動している。彼の『我が精神の遍歴』は私にとって気になる著書であったからである。今回、時代錯誤を覚悟の上、その本を読んでみた。

 そして意外なことを発見した。彼における左翼思想との出会いは自らが裕福であるという罪障が出発点であり、その根本問題はいかにしてその後生じた諸々の罪障を解決するかという「信仰」がテーマであったからである。最終的には親鸞の歎異抄が彼の拠り所であることには変わりないが、それに並行して聖書の伝えるイエス・キリストの存在は絶えず意識され、無関心でいられないということにあった。残念ながら、亀井氏は十字架の死を受けとめても、三日後の復活を受け入れるまでにはいたっておられないのではないかと思った。

 けれども、そういう信仰上のこともさることながら、私が更に大変興味を覚えたのは、戦中から、敗戦を経て戦後の世界に入る中で、いかに人々が偽善の世界に足をすくわれたかが、自身の文士の生活をふくめ、ジャーナリズムの罪として描かれている点であった。題して「偽態の悲劇」の中で次のように語る一節がある。

 人間を傀儡化する近代の有力な手段はジャーナリズムである。強権の圧迫というが、圧迫を加える独裁者自身も、自己の投じた言葉の無限大に拡大された反作用によって傀儡となる。近代戦は宣伝戦なりと言われたことのうちには、笑えない喜劇があるのだ。宣伝は言葉を阿片と化す。宣伝したものは、無数の活字と電波の交叉との反射によって、逆に宣伝され、自己疎外の状態のもとに途方もない幻影をみ、妄想を抱くに至るのである。故に、更に中毒性のある言葉をはかざるをえなくなる。宣伝は非人間的な呪文と化す。古代人に甚だ近似した魔術にかかった人間、これが戦時中鮮明になった「文明」日本人のすがたではなかったろうか。指導者とはその誇張された演劇的現象に他ならない。(『日本人の自伝』362頁より引用)

 この文章が本になってあらわれたのは昭和25年(1950)であるから、今から65年前の文章である。しかし昨今の官邸とジャーナリズムのあり方を考えるとうそ寒いものを感じさせられた。

 とまれ、年譜によると、彼の終焉の土地は昭和14年に移り住んだ吉祥寺のようであるし、昭和23年の6月15日の太宰入水自殺のおりは翌日から亀井宅が記者団の共同待合所となると記してあった。最初は今更亀井勝一郎もないものだ、大変な時代錯誤だとばかり思っていたが、『遍歴』を読み終えて、今の時代、一向に変っていない日本社会を思うて、彼の考えたことをもう一度問うてみるのも意義があるのではないかと思うようになった。

私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。(1コリント15・3〜8)

2015年12月11日金曜日

ああ!高校新聞史(下)

高校時代の友人N氏の座敷の欄間に架けられていた扁額

 私にとって、「何よ、今更。高校時代! あなた、あの高校時代がそんなに良かったの!」の言はまことに貴重であった。かつて20年ほど前、高校時代に互いに気を許していたと思っていた方を訪ねたことがある。その方はすでに町のお医者さんになっていた。その時、この友人はにべもなく言い退けた。「高校時代は思い出したくもない。お互いがライバルで、人を蹴落としてでも這い上がろうと懸命でなかったか。高校時代、誰にも心を許せなかった。それにくらべ大学時代は全く異なった。自由だった。私はここでほんとうに心の友を持った」

 恐らく、この友人は同期会には出席していないだろう。私とてもこの友人の気持ちがわからなくもない。しかし、同期会の常連である先の友人はそう言い(冒頭の言)ながらも、この同期会運営のためにいつも骨を折って労を惜しまないでおられる。むしろ年老いてからの互いの交流を楽しんで集っておられるようだ。

 同期会が終ってから大部な高校新聞を再び読み返し、新たな発見をした。それは二年生の時の新聞である。同じクラスの一人の方が生徒会長に立候補したおりの挨拶、またやめた時の挨拶文であった。そこにはその方がお父様を高校に入ってから亡くした悲しみが綴られていた。確かにその文章は当時読んだ記憶がある。しかし、そのおり恐らく、彼の境涯に一片の同情を持ちつつも、そのような公の挨拶に個人的な消息を書くことは慎まねばならないと批判的に見ていたのではないか。

 50数年を経て、再読し、ふつふつと彼の心情が伝わって来て、何と自分は薄情だったのかと思い至った。私も高校を卒業して間もなく母を亡くした(彼のお母さんは私の母と女学校の同級生であったように記憶する)。高校時代の自分はすでに病臥中の母を抱えていたが、我利我利亡者として彼の苦しみ悲しみに寄り添うことはなかった。今にして慚愧の思いがする。その後彼がどうなったかは知らぬ。

 そう思っていたら、今回の同期会に出席した一人の方から長文のメールをいただいた。一年生の時の同じクラスであった方である。控えめに見えた彼の内面に大きな葛藤があったことを初めて知らされた。そして15年間眠っていたと言う彼は、同期会を大切にして元気な顔を見せて三六会を励ましてくださっている。

 人生の多感な時期に同じ学び舎で様々なことを考えながら、私達は今日に到っている。つい先だっても、改めて一年生の秋の新聞に「原水爆実験禁止をめぐって」と題する座談会での先生とAFS留学を終えて帰られた二年生の方との記事を読み、感慨を覚えさせられた(※)。この方は他の号にも「アメリカの印象」と題した投稿や「アメリカに学んで」という座談会でご自身の意見を積極的に表明されていた。時は安保反対運動が盛んで高校生ならずとも無関心ではおれなかった時である。

 その方が長じて『朽ちていった命ー被爆治療83日間の記録ー』NHK「東海村臨界事故」取材班(新潮文庫)にとことんまでつきあわれた医学者で、責任者であることを知ったのはこの我流の「高校新聞史」の編纂の作業を通してであった。早速、図書館を通して取り寄せてもらったが、私はこの本を涙なしに読めなかった。もちろん、被爆し亡くなられた大内久さんの悲惨な死を思うてであった。一方、その治療の陣頭指揮を取られた同窓生でもあるM氏の苦渋を追体験しながら、この方が高校時代考えられたことがその後の人生の歩みに生かされているのでないかと思った。そしてその貴重なお働きの上に主イエス様の導きがあればどんなに素晴らしいことであろうかと考えさせられた。

 46枚のブランケット版の新聞は大部であった。しかも、私が要約しようとしたA4版でわずか四頁の「高校新聞史」は果たしてどれだけそれらを正確に反映できたか心もとなかった。まして、その高校時代の評価はこれまで述べて来たように、自らの体験をふくめて人によってまちまちであることも知った。

 にもかかわらず、私にとって「高校新聞史」を考えたことは無駄でなかった。たとえどんなに恥多き高校時代、逆に栄光の高校時代であろうと、リタイアして人生の最終局面にさしかかっている今、お互いにかつて学び舎を共にした事実には変りない。その同窓の誼みをもとに新たな人間関係を持たせていただいていることには大きな意味があると思い至ったからである。

(※そこでその方は次のように語っておられる「もし我々が黙っていたら即ち無関心でいたら世論はどうなるんです。独裁政治になってしまうんじゃないですか。世論を無視しての政治は現在不可能でしょう。この原水爆禁止を米、英、ソに要求するのは確かに岸首相であり藤山さんです。しかしその首相を支持するのが我々の世論なんですよ」)

どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。(詩篇119・9)

神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。(ピリピ2・13〜14)

2015年12月6日日曜日

ああ!高校新聞史(上)

高校校舎、道路に面した校門は伊勢湾台風で壊れた

 昨日、一年ぶりに高校の同窓生と会うことが出来た。先日新幹線車内でお会いしたIk君も元気な姿を見せてくださった。総勢25名で一夕をともにした。関西からわざわざ二名の方がお見えになったが、あとは東京、横浜、千葉、埼玉に在住する者が集まった。昨年は37名集ったので、10名強の不参加者になった。この一年間に二名の方が亡くなられ、欠席者の三分の一はご病気のゆえであった。

 毎年12月の第一土曜日に招集される同期会は実に根気強く持たれ、今年で32回目を数える。私は同期会の中では新参者の部類に属し、過去三年間続いて出席できたが、それ以前は散発的に二、三回 参加した程度に過ぎなかった。ところが昨年と今年と名簿順の幹事の役がまわってきた。そして幹事は同姓同名の二人であったことも以前このブログhttp://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2013/12/blog-post_9.htmlで書いた通りである。

 同期会は初めに前座のようなものがあり、出席者の中から一人が何か気の利いた話をしてくださる。一昨年は「道中記」の紹介、昨年は珍しい苗字の紹介とそれぞれ工夫を凝らして話をしてくださる方がおられた。今年はめぼしい方が思いつかなかった。そこで思い立ったのが三年間の高校新聞に描かれている誌面の紹介だった。

 たまたま、帰省時に家で見つけた赤茶けて破れかかっている新聞が三号ほどあり、内容がすばらしかったのでその他の号も見たくなり、高校に出かけて縮刷版のコピーをいただいて帰って来た(※)。年間5号、三年間で15号、ブランケット判で46枚の大部の資料であった。縮刷版のため文字は細かく読むのもままならなかったが、何かこれを追求すれば、皆さんに喜んでいただける話ができると思うようになった。それで我流でもあり、氷山の一角のものにすぎないとは思ったが、各学年の特徴を追ったA4版で4頁にまとめた資料を名簿と一緒に出席者に配布した。

 ただ、もともと懇親が目的だから、当方が用意した資料は必ずしも必要なものではないとは承知していた。ただ準備に何日もかかり仕上げたものなので披露しないでこのままみすみす帰ってくるのも惜しいので機会をうかがっていた。ところが参加者の一人の方が資料を見て、「何よ、今更。高校時代! あなた、あの高校時代がそんなに良かったの!」と一蹴された。この一言は鮮やかだった。私は瞬間自らの作業の無意味を悟った。

 結局、皆さんの前でこの「高校新聞史」を話すのは、当初私が考えていたものの三分の一程度に削減せざるを得なかった。結果的にはこれはこれで良かった。以降、24人の方々がこもごも近況報告をなさり、現在の自分(史)を語られ、校歌斉唱のあと、会はあっと言う間に散会の時を迎えることができたからである。その自分(史)の大半は闘病経験であったり、健康法であったり、老後や死後の身の処し方が中心であった。

(※この内容については今年の5月の二つのブログで紹介した。http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2015/05/blog-post_26.html http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2015/05/blog-post_28.html )

そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。そこへ、アモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。「主はこう仰せられます。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。』」(2列王紀20・1) 

2015年11月29日日曜日

天の配剤

彦根城中堀から石垣内の母校を眺めて(11/6)

 昨日、一枚の葉書が届いた。初めて社会人になった時の同僚でかれこれ50年来の親交をともにしている友人からであった。ここ数年ご無沙汰していたが、今年は珍しく夏に二度ほどお会いした。葉書には、「11月26日(木)JR彦根駅で」と記されていた。例の茶目っ気たっぷりの心情を思い遣った。ところが、日付を見て驚いた。

 実は、その日、私も知人の葬儀で彦根に帰り、同日、彦根駅で乗り降りしていたからである。文面には、北関東に住んでいるその友人がいつもは通り過ぎてしまう駅だが、今回は途中下車し、少し城周辺を歩きながら、私のことを思ったと書いてあった。

 ちょうど一月前、家内の友人が召されたので、急遽帰ったことは先のブログで書いた通りである。その上、その帰りには高校時代の友人夫妻とたまたま米原駅頭で出会い、新幹線車内をご夫妻と仲良く談笑しながら帰ったことも書いておいた。

 ところがこの一月ばかり、私は四回ほど関東と彦根を往復した。先の椿事(友人と出会ったこと)はその劈頭を飾る出来事であった。それからの出来事は私の想像を絶する出来事と多くの友人との出会いがあった。そしてその動き回った一月間の最後を締めくくるかのような冒頭の葉書の出現であった。

 私は彼への返書に次のように書いた。「天の配剤は、あわよくば、君と私とを彦根で再会させられる手はずであった。(ところが、そうはならなかった)思えば、高校時代、私は自らの幻想かも知れないが、彦根駅の上りホームに佇む亀井勝一郎を見かけたことがある。私は心の中で目礼をして通り過ぎざるを得なかった(※)、とつい最近知遇を得た北海道在住で高校の三年先輩の方に書き送ったばかりである。”駅頭に 行き交いしは 悲しきか” 」

 天の配剤は今回ばかりは私とこの友人が駅頭で会うことを許されなかったが、時刻はどうかわからぬが、同日に友人は大阪へ「ショスタコーヴィチ」を聴くための旅路へ、私は東京への帰路という形で双方思いは異なったが、彦根駅でのニアミスを秘かに計画されていたのだ。

 冒頭の新幹線車内でお会いした高校時代の友人とは今週末の土曜日には東京で行う同期会で再会する。そして再来週の日曜日には北関東のその友人の住まう足利駅を通過して伊勢崎まで行く予定がすでに三ヵ月以上前から決まっている。この友人のひそみに習って私も途中下車して「12月12日 東武線足利市駅前で」と記して葉書を投函するか、いや、それとも彼の家を三度訪ねるとするか。

天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。(伝道3・1)

(※私が同氏を見たのは多分晩秋の季節だったと思う。長身の亀井勝一郎氏はあのきれいな白髪をコートであったか、オーバーであったかに、身を包み、鋭敏でかつ柔和な眼差しを宙に向けておられた。いかにも孤高という感じを受けた。どうして田舎の彦根くんだりにあの時代、昭和34、35年ごろだと思うが、あらわれたのか、今もって謎である。だから「幻想」と書いた。こんなことは彼の年譜を見れば明らかなのだが、私の一方的な片思いが破れるのも恐いものだ。)

2015年11月4日水曜日

召された友のこと(尊い一語)(下)

「待望」H.H作

 ところで、召された友は、家内の高校・短大の同級生でごく親しかった。そして彼女のご主人は学科こそ違うが同じ短大で、ともに美術部の仲間で、互いに相見知っている間柄であった。だから家内はご主人と50年ぶりに会っても違和感はなく、ご主人も普段から奥さんを通して家内のことも聞かされていたであろうから、懐かしい再会であったに違いない。こんなことなら、ご主人ともっと早く会っていれば良かったと、家内は言ったがこれも後の祭りである。でも、このようにかけがえのない方を失った悲しみを共有し、主イエス様の復活にあずかる希望を持つことで、これからは私も加わっての新たなご主人と私たちとの関係が始まったと言えなくもない。

 朝早く、当地を出たが、火葬も終え、米原駅に向かった時にはすっかり日も暮れ始めていた。新幹線の中で、二人してひとしきり故人の思い出を語り合おうと思っていた。ところが、駅頭で椿事が発生した。自由席の列で待ち、すでに10人近い人が私たちのあとに並んでいたが、列の前を急いで歩いてくる私より背の高い人がいた。見覚えのある顔だった。高校二年の時に一緒のクラスになったことのあるIk君であった。思わず声をかけた。こちらの呼びかけにびっくりして、「よーく、見つけてくれたね」と言いながら、「オーイ、同級生がいるからこっちへ」と先にすたこら歩いていた奥さんを呼び戻された。

 私たち夫妻は先頭に並んでいたからいいものの、彼らは他の列車に乗ろうと移動していたのを私が呼び止めた形になり、おまけに懐かしさのあまり、並んでいる他の方には申し訳なかったが会った勢いに任せて四人で一団となって新幹線に乗り込んだ。その上、最初こそ通路を挟んで三人席と二人席に四人が並んで話し合っていたが、まわりの方の迷惑になるので、そのうち主人は主人同士、奥さんは奥さん同士で話し合えるように席を移動した。

 話し合うと言ってもIk君と私は高校時代、席が氏名の関係で端と端同士であったのでほとんど話したことはなかった。実質的にはこの時が初めての話しになったのではないか。まして家内同士は全くの初対面であった。ところが東京駅で別れる際には奥様が「またお会いしたいです。」と言われた。だから私たちが二時間余互いに話が弾んだことは言うまでもない。しかも彼らも実は葬儀の帰り道だった。私たちは日帰りの往復で喪服だから一見してそれとわかるが、彼らは平服に着替えていたので気づかなかったが、お聞きすると奥様のお母様が94歳で亡くなられ、やはりその葬儀の帰り道だと言われた。

 家内同士は「死」の問題、「介護」の問題を話し合ったようだ。私たち主人の方は高校卒業以来の互いの歩みを語り合うことになり、畢竟、私がなぜイエス様を信ずるに至ったのか詳しい説明を求められる羽目になってしまった。私はこれまで青春18切符の愛用者で、車内で初見の方と会い親しくなることはあったが、同級生に会うことはなかった。ところが今年は新幹線に乗る機会が増え、どういうわけかこれで今年三度目の同級生との出会いを経験している。これはどういうことなのだろうと思う。

 それやこれやで先週は日曜日から土曜日まで一日として落ち着いた日が過ごせなかった。途中の金曜日には家庭を開放させていただいてたくさんの方が集まられた集会もあった。でも、すべて恵みの日々であった。ところが幕締めの土曜日にとんでもないアクシデントに見舞われた。それは町田喜びの集いに日帰りで参加し、帰り電車は小田急多摩センターを8時半過ぎに出たのだが、家に着いたのは何と明くる日、日曜日の朝4時半であった。途中先行する電車と車の衝突の事故があったようで、各電車とも動かなくなってしまい、事故現場での復旧が捗らず大幅に時間を喰ったわけである。とんだ災難であった。気の短い私は情報が十分伝わらないもどかしさに、何度も車掌にかけあって「どうしているんだ」と言いたくなり、とうとう我慢できず、詰問に出かけた。家内は家内で「日本人はどうしてこう忍耐強いのだろうか」と半分あきらめ切っていた。

 たくさんの人を巻き込んだ騒動であったが、私の信頼する東京新聞も地方版の片隅に翌朝ほんの少し申し訳程度に掲載しただけであった。当日は日本はあげて私にとっては何が何だかわけのわからないハロウィーンに人々が血眼になっていたからであろう。ただ「警察は事故か自殺か慎重に捜査している」と記されていた。改めて人身事故であることを知るに及んで複雑な思いに捕われざるを得なかった。一人の人間の命がかかっての大混乱であったからである。

 ほとんど寝不足で臨んだ日曜日の礼拝であったが、礼拝の後、一人の方が小さい時自立を危ぶまれたご自分の息子さんが 、今日も一人で町田の集いに泊りがけで出かけていることを感謝の思いで報告し、ある時、御代田の会堂に虻が入ってきたが、「虻もイエス様の許しなしに刺せません」と言い、人々を安心させたその信仰にいつも自分たちは親だけれども脱帽していることを喜んで紹介された。その途端私も了解した。恵み多い一週間の歩みにもかかわらず、昨晩から今朝にかけて経験した出来事はいったいどういう意味があるのだろうかと考えていたが、このこともやはりイエス様の許しのもとで起きたのだ、と。そもそも主イエス様のご支配なしに人に何が出来るのだろうか。

 召された友はこのこともまた私たちに問いかけて召されたに違いない。もう一度彼女の言葉を記しておきたい。

 遅かったけど、私は生きたイエス様に会った

人の歩みは主によって定められる。人間はどうして自分の道を理解できようか。(箴言20・24)