2010年1月15日金曜日

結婚式メッセージ(上) ゴットホルド・ベック


私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は、神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。(新約聖書1ヨハネ4・16)

 今日、このようにして愛するN兄弟と愛するM姉妹の結婚をお祝いすることができるのは喜びです。結婚とはイエス様によって導かれた、という確信を、またお互いに愛があるという、確信を、持つようになったからです。そのための証しなのではないでしょうか。お二人の切なる願いは主イエス様をまだご存じない方々が、主なる神との和解を受け、イエス様の提供されている赦しを受け取り、主なる神との平和を自分のものとされ永遠のいのちを持っていると確信を持つまで、まことの救いを与えられるお方を切に求めていただきたい(ということ)。これこそが、お二人の切なる願いです。すなわち、今日の結婚(式)の目的とは一つの儀式よりも二人の信ずるようになったイエス様を紹介するための集いです。

 お二人は口をそろえて言えます。すなわち、イエス様は何でもできるお方であるから、私たちはこの主に頼ろうと決めた、と。

 イエス・キリストのない人生は無価値であり、無意味です。なぜならばイエス・キリストのみが永遠のいのちをお与えになり、本当の満足を与えられるお方であり、すべての問題を解決する力を持つお方であるからです。

 今日は本当に喜びの集いです。なぜならば、「イエス様が導いてくださった」と、結婚する、愛するお二人は告白することができるからです。お二人が勝手に考えたり、決めたりすることよりも、すべてを支配したもう主なる神ご自身が恵んでくださった、導いてくださったからであります。
 
 また今日はイエス様の忠実さをほめたたえるお祝いでもあります。イエス様はN兄弟とまたM姉妹に「わたしは決してあなたがたを離れず、あなたがたを捨てない」と約束してくださったのですから。お二人は本気になってイエス様の約束を信じ、すべてをゆだねることができたから、イエス様はご自分の約束を守ってくださり二人を導いてくださったのです。お二人の願いとは自分の人生において最優先されるべきであるのはイエス様です、と。二人の選んだことばをもう一回読みましょうか。

私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は、神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。

 結婚とは人間の幸せのためであるべきです。人間は幸せになりたいのであり、なぜならば、もし幸せにならなければ、すべては面白くない、意味のないものとなってしまうからです。聖書は良い妻を見つける者はしあわせを見つけ、主から恵みをいただく※、と書いてあります。良い妻を見つけたN兄弟はしあわせを見つけた。主からM姉妹をいただいたからです。お二人の選ばれたことばについてちょっと一緒に考えてみたいと思います。

私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は、神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。

とあります。

 このお二人の選ばれたことばは愛するお二人の将来のご一緒に歩む人生にとっての大切な指標となるに違いない。選ばれたことばの中に二種類の証しが含まれています。第一番目、お二人の経験をあらわす証しであり、それから第二番目に永遠なる事実をあらわす証しです。

 お二人の経験をあらわす証とは初代教会の告白でもあります。すなわち私たちは私たちに対する主なる神の愛を知り、また信じています。だからこそ、私たちは心のよりどころ、また、よろこびを持つ者となった。
 それから、永遠なる事実をあらわす証とは、神は愛です。愛のうちにいる者は、神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。動かすことのできない事実とは、すなわち、唯一の存在する、まことの主なる神は愛に満ちたお方である、ということです。そして愛のうちにいる者は主なる神のうちにおり、そして主もその人のうちにおられるという事実も、永遠なる事実であり、ことばで言い表すことのできないすばらしい宝物です。

 万物の造り主である神は生きておられる。これは被造物であるちっぽけな人間が信じても信じなくても事実です。聖書を通して主なる神は自分自身を明らかにし、啓示してくださったのです。つまり黙示録1・8を見ると

神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」

 人間は決して偶然の産物ではありません。常にいます、永遠なる神は、私たちをお造りになったのです。そして、すべての背後に支配者なる神は、はっきりとした目的をもって、人間一人一人の最善を考えておられ、導いてくださるのです。偶然は一つも有りません。確かに造り主なる神の偉大さを理解できる人間はいません。私たちの理解できる神は神ではなく人間らしいものになります。したがって主なる神の導きも同じように全く理解できないものです。理解できる人間は一人もいません。しかし主なる神は愛そのものであると聖書は言っています。これはもっとも素晴らしい事実です。(続く)
※箴言18・22

(文章は昨年の12月23日の結婚式のメッセージの聞き書きです。写真は新婦Mさんの友人の方の撮影になるものです。)

0 件のコメント:

コメントを投稿