2010年1月18日月曜日

結婚式メッセージ(中) ゴットホルド・ベック


 聖書は、神が愛を製造するとか、神は愛を贈るとか、言っていません。主なる神ご自身が愛そのものです。主なる神は、われわれ人間に、単にわたしはあなたがたを愛すると保証をお与えになっただけでなく、主なる神は、その愛を明らかにしてくださった。ご自身を明らかにしてくださったのであります。すなわち、次のように書いてあります。

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。(ヨハネ第一の手紙3章16節)

 私たちは、体験的に知るようになったのです。主なる神は愛そのものです。
 神の敵である悪魔はこれだけは絶対に認めたくないのであります。悪魔は自分のことだけしか考えようとしない。悪魔は要求するものであり、人間を束縛し、その結果、人間は縛られてしまいます。主なる神は人間から何も要求なさらないし、人間を自由にしようと望んでおられます。

 一人の方は自分の経験したことについていろいろなことを話してくださったのですが、結論として次のように言いました。わたくしたちの家(うち)は愛のない家(うち)です。これは悪魔の仕業です。聖書は次のように言っています。

誰もみな自分自身のことを求めるだけで、イエス・キリストのことを求めてはいない、不法がはびこるので多くの人々の愛は冷たくなります。

 愛が冷たくなってしまったのは否定できない事実です。そのために多くの現代人は冷たい存在となり、孤独な存在になってしまったのです。一番恐ろしい病気は孤独病なのではないでしょうか。相互理解、すなわち愛が欠如しているために、今日の主な病気はやっぱり孤独病です。多くの人は失望し相互間で愛された経験を持たない者になってしまいます。

 確かに世界中で「愛」ということばほど良く知られていることばはないでしょう。けれど、その反面、まことの愛ほど、まれなものもないのではないでしょうか。

 ある80歳になったおじいちゃんは私に告白して、また尋ねたのです。

 私はひどいものでした。
 女性は人間ではない。
 物に過ぎない。
 家内を大切にしようと思ったことがない。

 私は救われ得るのでしょうか。

 何と多くの人々は愛された経験がない、大切にされた覚えがない。悲劇的なのではないでしょうか。人間皆が求めるものは愛であり、信頼であり、相互理解です。ですから、人間が一つになることは、主なる神の啓示された愛以外の何ものによっても可能ではありません。必要としているのはイエス様です。なぜならば、イエス・キリストこそが主なる神が明らかにされた愛そのものだからです。お二人の選ばれたことばの中で書いていますね。

神は愛です。

 聖書を一度も読んだことのない人々さえもこのみことばを知っているかもしれない。そしてまことの神を知らないすべての人々は、神は愛であるから、私のわがままや失敗や債務や罪をすべて赦してくれるだろうと考えています。けれども、これはとんでもない考え方です。恐ろしい過ちです。贖いなく、さばきなくして、罪を赦すような神は本当の神ではなく、それは単なる想像や偶像に過ぎません。

 30年前でしょうかね、八王子の初めてのドイツのケーキの作り方を家内が教えたのですが、そのとき初めてだったのですが、ある婦人はみんなの前に次のように尋ねたのです。「私は神様がただ一人しかいないとか、それともたくさんいるのか知りたい。なぜなら、私はそれをどうしても知るべきであるからです。」

 彼女は結局心の支えを必要であるとわかったから、こういうふうに言えたのではないでしょうか。もちろん、これは本当に大切な問いです。主なる神はただ一人なのか、それともたくさんいるのか、この問いに対して宗教も科学も哲学も何の答えも与えられません。ただ主なる神のみことばである聖書だけが真理は何であるかを明らかにできるのです。

 すなわち、まことの神はただ一人しかいらっしゃいません。そしてこの方とは聖なるお方です。このまことの神は罪を罰することをせず、好い加減にするようなことなどおできにならない。人間のわがままは死をもって支払わなければなりません。これこそ、まことの神のご判断です。

 イエス様は本当なら私たちが担わなければならなかった罰をご自身の上に担ってくださり十字架で死んでくださったのです。したがってイエス様の死は私たち一人一人の罪の結果です。私たちのわがままのゆえにイエス様は死ななければならなかったのです。

 しかし、ただおひとり罪なきお方、すなわちイエス様の身代わりの死は、全人類の債務を贖うのに十分でした。イエス・キリストの復活は、贖いのみわざが成就されたことを意味しています。人間は自分の救いのために何もすることができないし、もちろん何もする必要がない、人間が自分の力ですることは、すべて例外なくまことの救いが成就されるための妨げに過ぎません。

 愛するお二人の結婚式がきっかけとなって、私たちが次の問いについて深く考えることこそ私たちの祈りです。すなわち、私たちの罪と債務はいかにすれば赦され得るのでしょうか。私たちの人生は本当の意味と内容を持つことができるのでしょうか。(続く)

(※ピリピ2・21、マタイ24・12)

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