2010年7月18日日曜日

霊に燃え、主に仕え クララ


「ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」(黙示録14:12)
「熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え、望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい」(ローマ12:11、12)

 開かれた天の御座の前に、白布をまとい手に勝利のしゅろの葉をかざすこれらは誰か、どこから来たのかと長老たちのひとりが、幻を見る者に問い、また解説して聞かせました。「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くした」(黙示7:14)栄光の子たち、勝利者の群れですと。

 光り輝く栄光の灯は、苦難の油をもってともされるもので、これは信仰の奥義であります。

 ヘブル人への手紙にも記されてありますように、神はその愛するものたちを訓戒し、苦難をもって磨かれます。主はみもとに来る者に救いをたまい、救われた者を聖められ、さらに輝く者となるために、彼らを救いの恵みのうちに安座させてはおきたまいません。なぜなら真に生きた信仰とは、死に至るまでも忠信な、白熱的なものでなければ、終わりを完了することは出来ませんから。信仰の生涯には必ず白熱的決断を要する機会が来るもので、昔から偉大な勇者たちは必ずここを通過しました。

 たとえば神に愛せられたダニエルは、死を覚悟した決断をもって進まねばならぬ試練にかち、か弱い一婦人エステルが、異邦の宮廷にあって「わたしがもし死なねばならないのなら、死にます」との決断によって民族の救いはなし遂げられました。信仰の父アブラハムは独り子イサクをささげた全き服従の決断によって祝福の基となりました。真の信仰はなまぬるさの内には光を放ちません。

 ラオデキヤとは当時繁栄した商人の町で、そこに住む人々は、自分たちは富んで豊かでなんの不自由もないと言って安易な生活をしていました。かかる環境の内にある時、信仰はこの世の俗化に同化されやすいのです。神は貧しいものを信仰に富ませたまいますが、安易な生活に流れます時、忠実な精神を失い快楽を求め、救霊の労苦よりも組織による団結がものを言うデモクラシーの道をとります。信仰から救霊の熱情が消える時、戦わない安易さに風びされます。その時霊はみじめな憐れむべき貧しさに陥り、自らが盲目であることにさえ気づきません。安易な快楽主義は忠実と手を結ぶ事は出来ません。キリストを着るべき信者が裸の姿を恥とも思わなくなってしまいます。組織や制度でまとめても、信仰の基本的立場がゆるぎますと、安易な周囲の事情や環境にたやすく同化して灯は光を失い、時代思潮の濁流に押し流されていきます。

 やがて来たります主イエスを迎えるため、そなえはいかに? 安易な心でまつのではなく、賢い配慮と忠実な思慮深い準備をもって、熱心にうむことなく、その日に備えましょう。

「小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意をしたからである」!!(黙示録19:7)

(『泉あるところ』小原十三司・鈴子共著・7月19日の項から引用。教会人小原鈴子氏の指摘は鋭い。教会組織と制度に安住するなかれとは、34年前の著述にしては余りにも慧眼の書と言えよう。昨日のYさんは死に至る病を通して、今死に至るまで忠実な僕として戦っている。彼女にささげるにふさわしい書と言えよう。我もまた彼女の信仰を継ぎたし。彼女たちと昨年眺めた冬の琵琶湖を載せる。左側は沖ノ島で、右側は近江八幡の山々であろう。琵琶湖畔守山なぎさ公園からの眺望。「ひたひたと 押し寄せる波 汚れ取る」。)

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