2010年7月25日日曜日

戒めを守り、愛のうちにいなさい 


「もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである」(ヨハネの福音書15:10)

 キリストの愛を深く洞察し、愛とはキリストが人の魂を守られることであると固く信じることによって、平安で、しかも力強い生活に入った人のあることを前に述べた。このような生活の変化と、これを受け入れる信仰に関連して、しばしば聖別ということばが用いられる。完全な服従の生活に入らない限り、このすばらしい愛を受け続けることはできないことを魂は知っている。同時に、キリストが私たちを罪から遠ざけることを信じる信仰が、私たちを服従させる力を持っていることを、立証しなければならないことを魂は知っている。そのことによって、今までの信仰の妨げをしていたものを全く捨て去り、神のみこころにかなう生涯に入ることが約束されるのである。

 今ここで救い主は、そのみ教えの中で、主の愛につながる人生の条件として、主の戒めを守ることを求めておられる。この条件は、今開かれたばかりのキリストの愛につながる住み家の門を閉じるものではけっしてない。また、ある人々が喜んで受け入れようとしているこの条件が、手の届かないような遠い所にあるというものでもない。その条件とは、「わたしの愛のうちにいなさい」という約束そのものである。開かれた門への道しるべは、私たちが到達できないような単なる理想ではないのだ。祝福された住み家へ私たちを招待するために差し伸べられた愛の手は、私たちに戒めを守ることを可能にさせる。だから主のみ力により、父のみもとに昇られた主のみ力により、主に従い、戒めを守ることを恐れなく誓おうではないか。私たちにはキリストのみこころをとおして、キリストの愛への道が貫通しているのだ。

 ただキリストのみこころとは何を意味するかをよく理解することが大切である。それは神のみこころであると私たちが考えていることの一切を、私たちが実行することを指している。しかし私たちによくわからないことも多くあるはず。無知による罪も罪の一種である。肉から生じる抑制することのできない罪もあるだろう。これらの罪については神は時が来るならば必ず処理されるに違いない。そしてもし素直で信仰が深くあるならば、私たちが期待する以上の大きな罪の赦しを与えてくださるのだ。しかしそれは真に従順な心に対してだけである。従順とは、主の戒めを積極的に守り、すべてのことにおいて主のみこころを実行することである。ぶどうの木であるキリストを信じることは、キリストの何事をも可能にし、聖化する力によって、私たちをこの信仰上の服従に導き、私たちのキリストの愛につながる生涯を保証するものである。

 「もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである」というみことばは、天のぶどうの木であるキリストが説き明かし、また与えるところの人生の奥義である。キリストはその愛の中に完全にとどまる秘訣をお教えになる。キリストのみこころを行なうために、何事についてもキリストに心から従う者に対して、キリストの愛につながる人生に近づくことが許されるのである。

祈り

「『いましめを守り、愛のうちにいなさい』とあなたは言われました。あわれみ深い主よ。ただあなたのみこころを知ることをとおしてのみ、あなたの愛を知ることができ、またあなたのみこころを行なうことをとおしてのみ、あなたの愛にとどまることができるというこの戒めを私にお教えください。主よ。もし私があなたの愛にとどまりたいと願うならば、私が自分だけの力を頼むことがどんなにむなしいことであり、あなたのみ力を信じることがどんなに大切で、また絶対に欠かすことのできないことであるかを私にお教えください。アーメン」。

(『まことのぶどうの木』安部赳夫訳94~97頁より引用)

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