2010年7月22日木曜日

『この世は一度きり』(岡野薫子著 草思社)


 先日、知人のお母さんの葬儀に出席した。そのお母さんは79歳だったが、一人娘である知人とは別居しておられ、東京の自宅で亡くなっていたのだ。「孤独死」だった。その葬儀の帰りの席で、葬儀に出席していた親しい方から、「女学校の同級生が書いた本だけれど、読んでくださらない?」と差し出されたのがこの本だった。題名を見て、生意気にも「今更、何を言わんや」とさえ思ったが、出版社が出版社だけに興味をそそられた。

 実は、私はその葬儀では「みことば」を語らせていただいたのだが、心の中で大いなる葛藤があった。人の死は厳粛である。亡くなられたお方は私の知らない方ではない。それどころか、何年か前には交流があり、子どもがお世話にもなった方でもある。「孤独死」であったので、どのような思いで亡くなられたのかは知る由もなく、主なる神様のみこころを求めて葛藤した。その詳細は省くが、余りにもタイムリーな本なので、帰って早速岡野さんのこの本を読んだ。

 そして著者の人となりに大変興味を抱かされた。私とも共通する点をいくつか見い出せたからである。私という読者はまことに勝手なものだ。そういう読み方しか出来ないからだ。通読して、この方がカール・ヒルティーや坪田譲治さんらを援用しながら、自身の死生観を存分に語っておられるところが目についた。この方をもっと知りたいので、ほかの本はないかと図書館で調べたら、実に104冊の本が蔵書としてあった。もちろんこの中には同じ本も納められているのだが。大変高名な作家であることをはじめて知った。

 その葬儀が終わって今日で一週間になるが、昨日、もう一度岡野さんの本を再読した。そして、この本が岡野さんの警世の書としての『この世は一度きり』であることを実感した。そこにはご自身の黒姫山荘での生活や都内でのマンション生活を通しての創作活動を基軸として、文明社会に慣らされていつの間にか神様から与えられた人間としての生きる力をなくしてしまっている現代日本人への警告が込められているように思ったからである。岡野さんは幼くしてお父様を亡くされ、「仕事」のためにやむなく「独身」を選ばれた。様々な作品を世に送られ社会に貢献なさっているが、翻って自己を省みられれば、80歳の坂を越え、「孤独死」も決して他人事ではないのだ。

 そのような中で、もともと科学映画のシナリオ・ライターからスタートされただけあって、動物をはじめとして、自然界への観察が細やかであり、説得的であり、この本に魅力を与えている。猫も何匹かこれまで飼ってこられた。その生態を通して、対照的な人の死が描かれる。それはともかく、カラスまでが岡野さんの友になる件なんて読まされると、何とこの方は素敵な方だろうと思ってしまう。

 しかし、全部で12章にわたる叙述は最後に始皇帝という権力者が「不老不死」を悲願に生き死にした有様が、描かれている。庶民の視点をもって正しい死生観を提唱されようとしている割には、凡庸な結論で終わっているような思いがしないでもない。もとより、誰しもこの結論に異を唱える人はいない。むしろ良心的に『この世は一度きり』という人間が避けて通りたがる事実を真正面に扱われているこの本は、やはり多くの人に読んでいただきたい本だ。「家族制度の崩壊」に端を発する「ひきこもり」「孤独死」「結婚しない人々」「絆を絶たれた家族のあり方」「虐待」などとこんなに多くの病根をかかえながら一体日本人はどこに向かおうとしているのか、戦中戦後と生き延びて来られた著者から問われる思いがするからである。

 著者の周辺にはキリスト者がおられると言う。しかしその有様に疑問を感ずるとして、次のように述べられている。

信仰をもつ人だけが、神に祈れば何事も許されて、自分の罪は許される――というのが、いかにも身勝手で理不尽に思われて、子ども心に納得がいかなかったのである。成長するにしたがい、私の心は“自然への回帰”というところに落ちついた。その結果、晩年につづく「死」も、恐ろしい感じはまったくなくて、むしろ救いであるように思えてくる。ただ、そこへ辿り着くまでの最後の道程が実に大変なことを、今の私は身にしみて感じている。これを、新たな旅立ちへの試練というふうに考えられないのは、信仰をもたない者の弱さだろう。(同書240~241頁)

カール・ヒルティーはみことばに頼ったキリスト者であろう。また坪田譲治氏には75歳のときに書かれた『子ども聖書』もあり、そのあとがきにはご自身が若きときに洗礼を受けられたことが書かれている。この方に私淑されたから今も多くの影響を受けておられるのであろう。けれどもキリスト信仰の要である、キリストの十字架の死、復活、再臨をどのように受けとめておられるかはわからない。

 科学映画を制作されたお方として、鼻からそれは信仰をもつ人にだけ妥当することだと一笑にふしておられるのかもしれない。折角、始皇帝の死生観の空しさにまで踏み込まれながら、人間の責任と悔い改めが要求される今も生きて働いておられる神様に対して私たちがどうあるべきかが述べられていないことが私には唯一残念であった。もっとも、もしそこまで踏み込んで書けば、宗教書となって、草思社からは出版できなくなるのかもしれないが・・・。

 著者の書かれた本の表紙絵は内容を端的に伝えるすばらしい絵だと思った。それで、今日はそれを写真として載せさせていただいた。中央左は砂時計である。右下の猫と同じ色模様で配置が素晴らしい。著者は砂時計を好まれる、と言う。私も同感であった。一回り下の年齢の私だが、砂時計の残りの部分はご多分にもれず少なくなっている。自戒して「一度きり」の人生を歩ませていただきたい。

 最後に、葛藤の末語らせていただいた葬儀で導かれたみことばを載せさせていただく。

人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。(新約聖書 ヘブル9:27~28)

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