2011年8月9日火曜日

今夏のオイカワ体験

小川に魚がいるというので見に行った。いる、いる。何匹ものオイカワというのだろうか、魚が上り下りする。絶好のシャッターチャンスとばかりに川面に向かってカメラを構える。ところが、どうしても思うように被写体とはなってくれぬ。夢中になっていると狭い路地ではあるが車も行き来する。我が身も守る必要がある。何だかんだで結局理想の写真は撮れなかった。でも、そんな私を知ってか知らずか水中で上手にキスをするカップルまで見せつけられる始末だ。

鳥といい、魚といい、どうしてこうも逃げ足が早いのかと思って、家に帰って家内に話したら、家内は家内で庭の蝉がやはり同じ態度を取る、と言う。今年は例年になく蝉がたくさんいるので、見ようと近づくと、サッと逃げていくというのだ。結局、神様が本能的に危険を察知して逃げるようにその能力をインプットされているのだということに落ち着いた。

そのことに思い至った時、昨日初めて親しくお交わりをいただいた障害を持つ方との語らいの話を改めて考えざるを得なかった。その方が絶えず学校で教えられたことは、「人の助けを借りず自立するように」ということであり、いつもそのことが念頭にある、とおっしゃり、だから、イエス様を信じられないのだと言われたことだ。

ハンデがあり、生きるために数倍の努力をしてこれまで懸命に生きて来られたことが言葉の端々からうかがえた。その方がドラマで見た伊達政宗の娘さんの話しをしてくれた。宣教師から福音を聞き、信じたが父の政宗から反対され、信仰を外にあらわさないで心の中で信じていれば誰からも何も言われなくなった、と言う話で自分が一番共鳴する生き方だと言われた。

お聞きしていて、私の心は複雑だった。イエス様が必要だとわかっているが、人の目が恐ろしいと言われているかのようであったからである。しかし、三時間足らずの語らいの終わりにその方が様々な重荷を背負って苦しんでおられることがわかった。暗闇の中に一条の光が差し込んだかのようであった。なぜなら、主がその方に「重荷」を悟らせ、降ろすようにと語られ、その方も重荷をイエス様に降ろすことができたからである。

1968年生まれという彼に背負いきれないほどの重荷を主は負わされたかのようであったが、主は何よりも彼を愛されておられるのだ。すべての、魚をはじめ全被造物に愛は万遍なく及んでいる。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28)

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