2011年8月15日月曜日

戦争と私

 下記は亡母が20歳になるかならぬかで、夫に先立たれ、諸般の事情から家を改築するために(実態は新築)県知事に差し出し、建築許可を得た当時の木造建物改築申請書の概要の写しである。

出願者は亡夫○○○とともに北海道に渡り数年前より△△△において米穀商を労しおりましたが、夫○○○は昭和12年9月召集せられ敦賀歩兵第19連隊に入隊間もなく出征昭和13年10月11日戦死せるため止むなく、北海道を引き払い郷里たる×××に帰り自作農として生計を営まなんと永年賃貸しなし置きたる ×××の自宅に帰着致し候ところ何分以前より老朽の建物なりしものが永年手入れせず(略)一層甚だしく風雪を導く場合或は倒壊の患いあるやも計り難き状態に見受けらるるにより、これが改築を行わんと本年9月20日出頭人実家と同郷の(略)建築業の(略)と住宅改築工事の請負契約を締結なし、直ちに請負者を して木取りに着手せしめ、旧住宅は本年11月10日頃(略)家屋の取り壊しに着手の筈に有り候。然るに数日ならずして突然制限に関する発令あり驚き入りたる次第に候。出願者は親元×××に一町歩の田地を所有致し居り目下小作に当て居り候得ども近々その半数の返還を導き自作農を営し、何とか他より養子を貰い受け亡夫の血統を絶えざらんよう致したく念願し候。請負業者はすでに木造りは準備中なり殆ど新たに木材購入の必要なきまでに運び居り候次第ゆえ、何卒今回に限り特別の御詮議をもって総床面積が制限超過致し候事を御許可被成下候、御願致したく懇願奉る候なり。   昭和14年11月27日
                           

 一読して、夫の戦死といい、家新築理由に家制度を守るために身を挺す窮状を訴えた文章は、国家もそれはむげにも不裁可とせず、許可せざるを得なかった時代の証言と言えよう。しかし、昭和14年(1940年)の年表を見ると次から次へと様々な統制令が出ている。
その年の9月1日は興亜奉公日とされ、以後「毎月1日は戦争のため、待ち合い、バー、料理屋などで酒は不売で休業、ネオンは消灯」とある。

 その時代に家を新築するということはある意味でとんでもない贅沢と考えられた事であろう。いつも母はその負い目をもって生きていたように思う。そうして建てられた家も戦争末期には灯火管制のため白壁を黒く塗らされた。その時の無念の気持ちは母から一度も聞かされた事はない。

 しかし、戦後再び白く塗り替えされる事なく、今もそのあとは残されたままである。それからすでに70年。建物は老朽化する一方だ。しかし戦時の記憶は今も形を変えて私にこの「改築申請状」と黒塗りの壁を通して語りかける。

 一方、私自身はそうして迎えられた職業軍人の一人であった私の父が養子として吉田家に入り、母との間に与えられた嫡子である。先夫が戦死しなければ私の存在はない。歴史に仮定はあり得ない。戦争も一人の人間の存在も主なる神の御意志を抜きに考えられない。そして、神の御子であるイエス・キリストこそすべてにまさる平和を与えることのできる唯一のお方であることを思う。

私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。(新約聖書 1コリント5:20)

平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

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