2011年9月28日水曜日

夢昨夜

夏水仙、あなたにピントを合わせたつもりなのに
久しぶりに学校の夢を見た。学校ではどういう役割をしているのか不明なのだが、二科目の授業をしに出かけるところだ。ところが教える科目の科目名が時間割の黒板に書いていない。前任の教師からの引き継ぎもない。一体何をどうやって教えていいか分からない。そのまま教室に乗り込まざるを得なかった。教室内には、実に様々な生徒がいる。大教室である。ところが私の別の親しい教師がこの科目をやるには(その彼は科目名を知っているようだが)その教室は大きすぎる、もっと生徒も教師も膝つきあわせてやる小さな部屋の方が良いと助言するが、生徒はすでにその教室に入ってしまっている。

教える科目も分からないまま、教材を持ち込むが、それは簡単な英語の文章の載っている本だ。もとより生徒は何も持っていない。生徒は教師に教えてもらうことを期待しながら静かに整然と椅子に座って待っている。ところが教師である自分は何を教えていいのか科目名さえ明らかにされていない。手元にある英語の本は何の役にも立たない。そのうちにエエィっとばかり生徒の中に飛び込んで行き、生徒と手当たり次第話をする。途端に互いに盛り上がって行く。いわゆる授業らしき授業ではないのだ。生徒一人一人の切実な問題を一緒に自分も考えるし、まわりの生徒も考えるという形態の授業だ。ところが教師のすわったところの板が折れて私は倒れかかる。一挙に生徒は喜ぶ。 その後段々授業は佳境に入って来るが、待てよ、自分をいくら追求しても駄目だよ、そんな自己を探る授業を展開しても駄目だよと、心の内から声が聞こえて来るような気がする。夢の中でその自分の中の戦う二人、というより、自分の授業はいつも生徒の主体性を重んじ、自己に立脚点を求めるように働きかけ、それゆえに前人未到の領域を求めるかのように悪戦苦闘していた自分が中心でそれ以外の自分はいないはずなのだが、今現に夢を見ているはずの自分が一方でああそんなことをしていては駄目だ、主の前にある罪人である何もできない自分に立脚点を置くなんて大変だよ、おまえはそんなことで頭を悩ませていたんだなと微笑ましげに見ている始末であった。それと同時に、ああそう言えば、「現代社会」という授業があったな、科目名は明らかでなかったが、あの科目名はあったが「現代社会」も結局 はこの夢の授業と同じだったのでないかと考える。

その挙げ句ついに目が覚めた。「現代社会」の授業をしなくなってかれこれ10年は経とうと言うのに夢の中でそれらしきものが再現されたのである。「現代社会」のテーマはそれこそ様々なものがあった。吉田敏浩さんに導かれて「ミャンマー」を教材に選んだり、長谷川 博さんに導かれて「アホウドリ」を考えたり、高木仁三郎さんに導かれてそれこそ「原発」の問題やジオグラフィーを用いて「棚田」の問題をを考えたりした。 その時々に追って行ったテーマは新聞記者並みであり毎年苦労した。しかしどれ一つとして知識としては残らなかった。ただ真実に近づく手法みたいなものを生徒に一生懸命に身につけさせようとした。今その私の授業を受けたそれこそ3000人近い生徒とは何の交流もなくなった。生徒と顔を合わせる機会もない。しかし職業柄やはり今だにこんな夢を見させられるのである。かつての労働と今の自分が混在している不思議な夢であった。

ところが、今朝のスポルジョンの「朝ごとに」に次のみことばが掲げてあった。

「もし吹き出物が彼のからだ全体をおおっているなら、祭司はその患者をきよいと宣言する。」(旧約聖書 レビ13:13)

そして次のように書いてあった。(『朝ごとに』273頁より)

この規則は一見奇妙であるが、深い知恵がその中にひそむ。なぜなら病毒を外に噴出させることは、からだが健全である証拠であるからである。けさ、この奇妙な規則の象徴的な教えを学ぶことは、私たちに有益であろう。私たちもまたらい病患者である。そしてこのらい病に関する律法は、私たちにも適用できる。人が自分を全く失われた破滅した者と見、全身がことごとく罪の汚れにおおわれ、義なるものが一つだになきことを知って、主なる神の前に罪ありと告白するならば、彼はイエスの血と神の恵みとによってきよめられるのである。心中に隠れていて、感ずることのない告白せざる罪が、真のらい病なのである。が、罪があばかれ罪が感ぜられた時には、すでに罪は致命的打撃を受けており、主はあわれみの目をもって罪に苦しむ魂を見たもうのである。

自己を義とすることほど致命的なものはない。

引用の聖句は深い罪の意識のもとにある人に、なんという慰めを与えることか。いかに罪が黒く汚れていても、嘆き悲しんで告白された罪は、決して人をイエスから閉め出すことはない。主イエスのもとに来る者を、誰であろうと主は決して拒みたまわぬ。盗賊のごとく不正直であり、罪を犯した女のごとく不貞であり、タルソのサウロのごとくに凶悪であり、マナセのごとく残忍で、放蕩むすこのごとく反抗的であろうと、自らによいものが全くないことを感ずる人々には、神の愛 が注がれる。

ひるがえってわが夢のいかに自らを正当化するものであろうか。天使の微笑み、十字架のもとにいく自分の夢はほど遠い、われは依然として自らを義とする者である、と思い知った。

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