2011年9月5日月曜日

台風を押して

東海道線上り線車中から、大井川鉄橋。
公共交通機関について考えさせられた日々であった。台風12号の襲来のニュースの中、9月1日の木曜日に関東から関西へ、18切符で移動。中一日置いてさらに滋賀から広島へと移動した。先週の土曜日9月3日のことである。
最寄りの近江鉄道高宮駅から東海道線彦根駅へ出てそこから大阪へ行き、乗り継いでの広島行きを敢行しようとした。ところが台風12号はノロノロ運転で雨風を 絶えずもたらすばかりで、終わる気配もなく、各地の被害が次々に電波から知らせられる。こんな日に外出は不謹慎もはなはだしいどころか、我が家もどうなるか知れたものでなかった。しかし、どうしても広島に行きたかった。朝早く起き家屋に一応の手当てをして、家を出た。わずか5分程度の駅までの道だが、横殴 りの雨と風で傘差しもままならなかった。
やっとの思いで近江電車に乗るが、風強く、路面も緩んでいるのだろう。徐行運転であった。芹川の鉄橋も無事渡り彦根駅に着く。ところが改札口は上りも下りも閉 鎖されており、多くの乗客がたむろし、駅員が説明におおわらわであった。私の計画は緒戦でものの見事に敗退であった。いくら駅を恨んでもしようがない。こ のまま広島への旅は不可能に見えた。しかし、諦められなかった。その時、新幹線で米原から三原まで行くことを思いついた。18切符は使えず出費増だが止む を得ない。ところが米原までの行き方だった。琵琶湖線はストップしている。
再び近江電車にもどり、米原まで行くことができた。JRが止まり、私鉄が動いていたのだ。 米原まで行き、新幹線で大阪方面まで行こうとしたのは私以外にはもう一人の方がいたのみであった。しかし、これは完全な正解であった。考えてみると滋賀県内は新幹線の最寄りの駅は米原のみである。たまたま私の場合のように私鉄が運行していて米原までの路線が確保できたから広島まで行くことが出来たのだが、 滋賀県内の多くの方はこの日は公共交通機関に頼る限り身動きが取れなかったのではなかろうか。在来線は山陽本線でもこの日は運行停止であった。それにくらべ新幹線は終日動いていた。橋脚なり、線路基盤が在来線とは異なるのだろうか。国家威信をかけた新幹線とそうでない在来線のちがいだとあきらめねばならないのだろうか。
三日三晩生きた心地がしなかった台風12号だが和歌山・奈良の被害を考えてみると、もはやことばもない。山津波、津波、いずれも水のなせるわざだ。それにしても、どうして今年はこうも自然災害を見せつけられるのだろうか。ひとりでは生きて行けない現代社会にあって自然災害の中で多くの人がいのちや財産をなくしておられる。国家の関与なしに復旧・復興はあり得ない。どじょうのようにどろくさく政治家が責任を持ちたいと言われた首相に信頼するしかない。「公共」 の重みをひとしお感ぜざるを得ない日々である。
一 方、かくして出かけた広島で、多くの悩みを持つ方々と出会った。生きる限り悩みは尽きない。そしてひとりひとりの悩みは独自のもので他の人の悩みと置き換 えることは出来ない。だから、生きることの根源的な不安の出拠に私たちは目を開かされる必要があるのではなかろうか。米原をとおしてでなければ広島にはたどりつけなかった。公共交通機関のお陰である。しかし、網の目のように張り巡らされている現代社会、国家と個人とで問題がすべて解決されるわけではない。どうしても予測不能がつきまとうのが人間社会である。確かな土台に立ち、希望を持って生きることが問われているのではなかろうか。
今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。(新約聖書 ローマ8:18)
私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。(新約聖書 ピリピ3:20)

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