2012年9月20日木曜日

新しい聖なる都

聖都エルサレム  ギュスターヴ・ドレ画
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、はいることができる。(新約聖書 黙示録21・2、11、23〜27)

第一に、「新しい都」は、人類が願って止まない、一致と交わりに対する憧れの実現です。人間は一致と交わりに憧れています。すでにバベルの塔の建設の歴史が、そのことを語っています。しかし、人間のあらゆる努力は呪いと分裂に終わりました。今日に至るまで、人類は不一致と分裂の歴史を克服できていません。

第二に、人間は公明正大さに憧れています。しかし今日、すべては曖昧であり、嘘と偽善が人間を支配しています。教会でさえ、多くの場合は、救いの道を人間に示す山の上の光ではなくなってしまっています。これに対して「新しい都」ではすべてが神聖で主に捧げられており、すべては公明正大です。というのは、神ご自身がその中に住んでおられるからです。

第三に、人間は神の栄光をほめ讃えることに憧れています。しかし、私たちの自己追求によって主の栄光は覆い隠されてしまっています。「新しい都」には、暗い物や、隠されたり秘密にされている物はありません。宝石で作られた城壁は光を通すことができ、都は大通りも透き通ったガラスのような純金でできています。つまり、すべてが露わにされています。「新しい都」の住民はもはや主を悲しませることをせず、主から出てくる光を反映させながら神様の栄光を表わします。彼らは本物であり、光の中を歩む者です。

今、私たちもそれを望んでいるでしょうか。透き通っていて、私たちの考えが明らかにされ、隠されているものは一つもないような状態を望んでいるでしょうか。

一体、そこに至る道はどのようなものでしょうか。どのようにしてダイヤモンドはあのように硬くなるのでしょうか。また宝石類はどうしてあの様に色とりどりの輝きを放つのでしょうか。どうやって金は純粋なものとなるのでしょうか。真珠の美しさはどこから生まれるのでしょうか。

それはこうです。ダイヤモンドは恐ろしいほどの圧力によって硬くされ、宝石は削られることにより輝きを生じ、金は火によって精錬され、真珠は傷つけられることによって美しさを身につけます。つまり、悩み、戦い、辱められ、憎まれることに耐え抜いて、私たちは透き通ったものになるのです。これらのことを通して、私たちは神の公明正大さ、恵み、栄光の証人となるのです。現在の悩み苦しみを、やがて主のみ姿に変えられる手段と見なし、それらのものを感謝しつつ主の御手から受け取る人は幸いです。

私たちの濁った状態にある自我と不純そのものは、否定されなければなりません。そうでなければイエス様と共に暮らす生活はありません。

イエス様は、小羊として私たちのために虐げられ、傷つけられ、火で精錬されるような経験をなさり、神に見捨てられる絶望の深みにまでも行ってくださいました。なぜなら、それによって私たちが永久に「新しい聖なる都」で主と共に住まうようにという目的をイエス様が持っていてくださったからです。ですから、イエス様なしに楽な道を行くよりは、イエス様と共に悩みと攻撃を受けることの方が望ましいのです。

もっとも恐れるべきは、現在イエス様なしに生きることです。そして「新しい聖なる都」の外にとどめられてしまうことです。

(『すぐに起こるはずのこと』第4巻ゴットホルド・ベック著 312頁から引用。)

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