2012年9月7日金曜日

誰か神に逆らい得ん(下)

「そこで、蛇は女に言った。『あなた方は決して死にません。あなたがそれを食べるその時、あなたの目が開け、あなたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。』」(創世記3・4〜5)

悪魔は、神から独立し、人間を神から引き離そうとします。悪魔は人間を試み、悪巧みをもって人を誘惑し、不従順の道へと引き入れます。そして、人がその罪に陥る時に、神の前でその人を訴えるのです。

悪は、時には善のように見えることがあります。ですから、悪魔も時には「光の天使」のように見えることがあります。イエス様が捨てられ、十字架にかけられた時も、まさにそのとおりでした。イエス様に逆らったのは不品行な人たちではなく、民の中の選ばれた人たち、つまり聖書学者、愛国心を持つ人々、律法学者、宗教的な指導者たちなどが、イエス様に逆らったのです。

しかし、そのことによって悪魔は、その本質を明らかにしました。油注がれた救い主に逆らう、というできごとをとおして、見えない世界に住む天使たちの前にも、悪魔の本質が明らかにされたのです。

信者たちの罪を神の前に訴える時、しばしば悪魔は物事の真理をついていることがあります。なぜなら、罪は必ずさばかれなければならないからです。しかし、イエス様を訴えることによって、悪魔は自らが偽り者だという本質を明らかにしたのです。

人間の目には悪く見えないことが、実は悪魔的であるということがよくあります。たとえば、信仰をもつ者が、自分の判断と自分の力によって行動することは、悪魔的です。聖書の真理性を疑うことも、悪魔的です。人間の智恵によって神のおきてを破ること、たとえば、「生まれ出ようとする子供の生命を勝手に奪うこと」も、悪魔的です。主への不従順と自己愛を抱きながら、何かのために努力することも、悪魔的です。

「光の天使」を装った悪魔は、主への従順、信頼、献身から人間を引き離そうと誘惑するのです。悪魔は、人間を「疑い」や「自分に拠り頼むこと」、そして「自己主張」へと誘おうとしているのです。

悪魔の行いはまた、次のように説明することもできます。

悪魔は主のみことばを小さくし、人が罪を犯すことを恐れないようにしむけます。創世記の3章に書いてあるように誘惑するのです。そして、誘惑され、悪魔に説き伏せられてしまった人々を、今も、天の法廷に訴えているのです。この時、悪魔は「罪を犯す者は、死ななければならない」という、神のおきてを持ち出すのです。

「見よ。すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。」(エゼキエル18・4)

「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6・23)

悪魔は神のおきてに基づいてさばきを要求します。その時悪魔は、神の力をもって人を滅ぼすのです。神は人を生きるように作られましたが、悪魔はこれを滅ぼそうとしています。

(昨日の文章の続きである。「すぐに起こるはずのこと」は全4巻からなる黙示録のみことばに関するメッセージの収録であるが、今から11年前に出版されている。ひとりのドイツ人が来日する際、日本語をモノにするには、メトシェラの老齢、ソロモンの英知、そしてヨブの忍耐が必要とされると聞かされて来た。その彼が10数年前に日本語で語ったものの聞き書きである。この全4巻は無料で手に入るが、今も倉庫に山積みにされている。日本人のひとりとして、私たちはこの本を読む責任があるのではないか。随所にヨーロッパ文明に対する聖書を基盤にした著者の批判・悲しみを感ずるのは私だけであろうか。)

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