2012年9月24日月曜日

高崎・横川間

こんにゃく畑 松井田近郊
高崎から横川まで走る信越線がある。以前はその先も碓井峠を越えて信州軽井沢に至った。私は、この路線を利用してもうかれこれ20数年信州へ行き来している。40数年前に関西から関東に住まうようになり、当時住んでいた足利から両毛線を前橋まで抜けた時は萩原朔太郎の『旅上』を思い、車窓によりかかったものだ。私にとって「車窓」はかけがえのない空間である。

ところが、先週その信越線で新たな発見をした。いつも高崎から横川方面に乗り継ぐとき、決まって進行方向の左側に腰を降ろすという習慣があったことに気づいたのである。左側は方角で言うと南側に当たるが、安中の亜鉛鉱山を眺めたり、終着の横川では妙義山を眺められる。飽きることなくその景色を見ての横川行きであった。ところが今回は左側でなく、右側に座席を占めた。北側である。今まで全く気づかなかったこの沿線の市井の営みや川の清流やねぎやこんにゃく畑を見、バックにある小高い山々を望見したのである。全く初めて見る景色であった。同行の家内は「岡山みたい」と言う。(彼女曰く、岡山とは丘とも山とも区別のつかないたくさんの山があるから岡山と言うのだと言う)

すべてが私にとって初めて見ると言ってもいい景色であった。走っている路線は同じ信越線なのにである。いつもどういうわけか決まって左側に座席を取っていた。だから全く右側の景色は知らなかったのである。そしてよく観察してみると、この沿線は小さな山が北を占め、その南側の線路までを一区切りとして町々が発展していたのでないかと思わされた。乗車区間としては決して長いと言えないので今までそんなことは考える隙もなかったのかもしれない。

しかし、余りにも右側と左側の風景がちがっていることに思い至った時、ふいに人生における分かれ道ともいうべきイエス・キリストがともにいたもう人生とそうでない人生(無神の世界)の違いを思うた。聖書は端的に

御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。(新約聖書 ヨハネ5・12)

と言っている。たかが、車窓の景色に過ぎないのに論理の飛躍だと言われるかもしれない。しかし10年一日のごとく同じ側に座って見慣れた風景が、ある日突然誰示されるともなく、反対側に座ってみたらまったくちがう景色がそちらにあったとしたら、人間の何気なしに歩んでいる慣行を大きく考え直す機会になるのではないかと思ったからである。

幸い、人生の同行者として私も妻もつねに同じ側に座っている。ふたりでイエス様を信じておりいのちを持たない、つまり滅びの道を歩んでいるのでなく、いのちの道を歩ませていただいていると主イエス様に二人で感謝している。

ところで話は続く。途中「礒部」駅に停車したとき、私はそのシンプルな縦長の駅名表示とランプ状のものにかつての全盛期の信越線の名残を見つけ、感心して家内にその旨伝えたところ、家内は家内で余りそのことは関心はなく、構内の銀杏の木の梢とそうでないところとで黄葉のちがっているところに目を見張って私に話すのであった。確かに同じ側に座っている。しかし見るところは違うのである。

何となく主イエス様が私たちに示してくださる人生は、ともにいのちある人生であってもそれぞれその人に応じて色合いが違うのだというところがうかがえて私はひとりで心の中で微笑んだ。

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