2014年2月10日月曜日

宣教師、誰かこの任に耐え得んや(下)

府中郷土の森公園にて
前回ご紹介したパール・バック女史の父親の死についての感想は私に様々な感慨を抱かせた。それははしなくもそこに露呈されていた宣教師夫人、すなわちパール・バックにとっての母親の死が父と全く異なったものであったことが述べられていたからである。そのことを確かめるために続いて『母の肖像』(村岡花子訳新潮文庫)という彼女の書いた本を読み、結婚について・夫婦のあり方、特に主を受けいれることの重要性について改めて教えられる思いがした。

この宣教師夫妻はアメリカからともに中国に宣教に出かけることを通して、結婚に導かれ、何回かの賜暇休暇のためにアメリカに戻った以外は、全生涯のほとんどの期間を中国で過ごし、その骨を中国に埋めた夫妻である。妻は夫より10年先だって召されたが、二人の間には七人の子女が次々と与えられたが、それに呼応するかのようにこれまた四人の子女を相次いで失くしていくにいたっては全く圧倒された思いにとらわれざるを得なかった。しかもこのことの精神的、肉体的負担はつねに妻に一方的にかかり、夫には妻に与えた影響ほど深刻なダメージが伝わらない様子が娘であるパール・バックの筆を通して直裁に描かれ、胸を打つ。

たけり狂う灰色の海の上に灰色の空が重く垂れている。神はいずこに在ますというのか? 祈ったってどうなるものか—しるしを求める必要もない。彼女は神に挑戦するかのように子供をしっかりと両腕にかかえて、そこにうずくまり、海を凝視した。そうして急に大声をあげて咽び哭いた。この大きな悲しみの最中でも船酔いは去らない。死んだ子を抱きかかえて母を無慈悲な船酔いが苦しめる。生まれて来る生命のために彼女は自分の身体を大切にしなければならない。(略)暴風を警戒して密閉してある窓の厚い硝子に顔をぴったりつけてアンドリウが外を眺めていた。黒い水は間断なく硝子窓を打つ。まるで海の底を走っているようであった。彼は落ち着いた顔を妻のほうに向けて、おだやかに言った。「神のみ心だ」然し、母は濡れた髪の毛をかきあげながら投げつけるように答えた。「私に神さまのことなんか聞かせて下さいますな」と言ったかと思うと、俄に彼女は声をあげて泣き出した。(同書110頁)

しかし、これは始まりに過ぎなかった。その後三人の子を失う。そして四人目の犠牲者を出した後の叙述として次のように記されている。

やがて生まれて来る幼い者のことを考えても、何の悦びも感じない。生んでは死なせ生んでは死なせするのだったら全く無用である—恐ろしい、悲しい、生命の浪費である。又しても母は以前のような病的の恐怖におそわれて来た。子供たちがこんなに次々と死ぬのは、何かの罪の罰ではないだろうか? かたくなで神に背いている罪の心を神がこらしめているのではないか? 考えて見れば今は昔のように純粋な気持で、飢えかわくが如くに、神を求めてはいない。唯、人間に親切を尽くすだけで満足している。神を求めるために努力したことがない。これでは、しんそこ神に服従することを覚えるまでは、何度でも、打ちのめされるかも知れない—一人の子供でも残っているあいだは、神のこらしめの鞭はいつ当てられるか分からない。神に服従することを学ばなければならない。(同書190頁)

アメリカを離れ、中国で生活し、中国人の救いのために生きることは、しかもこの当時中国は共産革命以前の時代ではあったが、義和団事件という外国人排斥運動もあり、きわめて宣教師には生きにくい時代であった。その時、この宣教師を支えたのは七人の子女を夫の助けを借りずに懸命に育て上げるだけでなく、夫の宣教のために物心両面の援助を惜しまなかった妻の内助の功であった。その妻がいなければ、この宣教師による中国訳聖書の発行も日の目を見なかったことだろう。これだけを知るだけでもすごい働きだと思わざるを得ない。しかし、夫婦のありかた、また結婚というたいせつな原点を描いている最終章近くのパール・バックの描く次の箇所は残念ながら私の同意できないところだった。

母はまちがっていた。アンドリウは彼の説教をどんなふうにでも手伝われたりすることは望んでいない。自分の説教に満足しきっているし、妻の助言などというものにはいささかの期待も懸けていない。彼女の好む賛美歌などは父には無意味に思われ、陽気すぎると言うのだった。恐るべき地獄が、この世のむこうに口をあいて待っているのに、この世の悦びや美などを歌っているのはもっての外である。その上に、パウロの神学の、女は男に従属すべしという思想がしみ込んでいるアンドリウは、母が家庭を治め、子供を生み、彼のために日常の用事を弁じてさえいればよかったのだ。「男は女の頭なり」男を通じてのみ女は神に近づけると聖書は教えた。(略)女性に酷なる時代—宗教的生涯を歩もうとする凡ての者に峻厳だった時代に、生まれ出で育てられて来た母としては、結婚の常道から離れようなどとは思いも寄らなかった。如何に相克する夫妻であろうと、如何にその結合が空虚な殻であろうとも、如何に内面生活が相隔たっていようとも、外面のつながりは絶つべきではなかった。如何なる強い愛の結合よりもなお一層強いものは宗教と義務の鎖であった。(256〜257頁)

ここで「パウロの神学」とパール・バックが言い切ることに私は違和感をまず覚えるからである。聖書はイエス様が中心である。そしてパウロの書いたことはイエス様の言われたことと表現は異なるが全く同質のものであり、霊感された神のことばであると思うからである。悲劇はパール・バックが幼いときから見聞きした夫婦の様は彼女が描くように大変な遠隔を持ったまま決して一致することがなかったことに起因するのでないだろうか。そこに宣教師自身の大きな責任があったのでないだろうか。ただ宣教師は妻の死に際し、本当に妻は救われているのであろうかと心配する場面が描かれているが・・・(『戦える使徒』224頁、『母の肖像』282頁)。

恐らく、賢いパール・バックは母の二の舞を歩むまいと固く決心したのではないだろうか。能う限り懸命に生きているパール・バック、また大変な知日家であるパール・バックの日米中に関する二つの作品で示されている考察は中々鋭いものがある。念のため『私の見た日本人』という作品も読んでみたが、一読そう思わされた。しかし、肝心の福音は彼女には受け継がれていない。一組のカップルが太平洋という大海を越えてはるばる中国にまで出かけ、夫はそこで福音のために働いた。だが、妻は最後まで福音を受けいれられず、その穴埋めをするかのように懸命に中国人を分け隔てなく受けいれたその姿は、反面教師としてヒューマニストとしてのパール・バック女史に受け継がれたようだ。そしてこれが今日のアメリカ人の一般的な姿のようにも思う。

時代は移り変わり、日中関係、日米関係、米中関係に新たな知恵を要する時代になったという。いとも簡単に先人の築き上げて来た国際関係を無視するかのような昨今の風潮の中で、パール・バックの示す本を読み返すことも無駄でないように思った。しかし、福音に生きることの難しさを改めて思わされるとともに、中国人のために身命を投げ打って仕えた宣教師夫妻に心から敬意を表したい思いがする。最後に『戦える使徒』を読んで感動されたのであろう、その本を図書館に寄贈されたのであろう方が裏表紙に署名入りで手書きで書き込まれていた。その文章を以下記す。

この書を読んでアンドリウの生き方に僕は感動した。自己の総てを神に捧げつくした人間の確信と幸福を画いているが、僕にはまだこのように神に凡てを捧げつくすことは出来ない。僕はまだ自己の幸ひを願っている。それは眞の幸ひではないかも知れないが恐ろしい気もする。

この本でパール・バックがアンドリウの内面の幸ひをあまり画いていないのが、しかたのないことだろうけれど、不満だった。しかし不思議に思ったのは、神に凡てを捧げ家庭をかえり見ないアンドリウの妻と子(パール・バック)が人間的にはアンドリウを絶対的に尊敬し信じ、愛して苦しみを共にしていることだ。アンドリウは幸福な人であったというより他はない。
                            ○○○○ 1955・3

だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。 主イエス・キリストの父なる神、永遠にほめたたえられる方は、私が偽りを言っていないのをご存じです。(2コリント11・29〜31)

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