2014年2月4日火曜日

キリストの友情—その親しい交わり

わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。(ヨハネ15・15)

まことの友情の最高の証拠と、その喜びの最大の源は、友と心の奥底の秘密を分かち合う親密さにある。キリストのしもべとなることは幸いなことである。キリストによって贖われた人々は喜んで自分を奴隷と呼んでいる。キリストはしばしば弟子をしもべと呼ばれたことがある。しかし主はその大いなる愛によって、「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません」と言われ、聖霊の降臨と共に新しい時代が始まったのである。「しもべは主人のすることを知らない」から、しもべは主人のすべての計画に立ち入ることは許されず、ただ従うだけである。しかしそのしもべが、「わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです」というみことばによってキリストの友となったのである。キリストは友には父からまかされたすべての秘密を打ち明けられる。

このことが何を意味するかを考えてみよう。父の戒めについて語られるとき、キリストの言われた戒めとは、聖書に書いてあることだけでなく、父からの毎日毎時伝えられる父の特別な戒めも含んでいるのである。これについて主は、「それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです」(ヨハネ5・20)と言っておられる。キリストのなされたことはすべて神のみわざである。それはキリストが十分な理解をもって、父の意志と目的を実行されたからである。また神の相談にあずかる者として、キリストは神のご計画をことごとく知っておられたからである。

さて、しもべのように主のみこころの意味と目的の霊的な内容も知らずにみこころを行なうのではなく、今や祝福されたキリストの友であることによって、キリストの身内として神の秘密のお考えをある程度知ることを許されたのである。ペンテコステから後は、聖霊によってキリストは今までの譬ばなしを離れて、神の国の奥義の霊的な理解に弟子たちを導かれることになったのである。

友情は何よりも交わりを楽しむ。友はよく相談し合うものだ。友は友以外の人には知らせたくないことでも互いに信じて話し合うものである。

主とのこの聖なる交わりにクリスチャンを近づかせるものは何であろうか。また父がキリストに示されたことをキリストが私たちにお知らせになるのを、理解するための霊的な能力を私たちに与えるものは何であろうか。それは魂をきよめるところの愛情に満ちた服従である。それはみことばの戒めを理解するだけではなく、私たちの日常生活にみことばを実際に当てはめていくことにも関係がある。しかし、これらのことは信頼とへりくだりがなければとうてい期待することはできない。そして誠実さをもって服従すれば、魂はさらに主との密接な交わりにかなうようになり、日々の生活に、「 わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです」というみことばを絶えず経験するようになるのである。

祈り
「 『わたしはあなたがたを友と呼んだ』とあなたは言われました。何という光栄でしょうか。ことばで言い表わすこともできないほどです。何というすばらしい特権でしょうか。救い主よ、『わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしは友を愛する。わたしは友を信じる。友には父とわたしとの間に起こるすべてのことを知らせる』と、私の魂に力強く語りかけてください。アーメン」。

(『まことのぶどうの木』アンドリュー・マーレー著安部赳夫訳127〜130頁より引用。)

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