2014年2月7日金曜日

宣教師、誰かこの任に耐え得んや(上)

蝋梅 府中郷土の森公園で
安田寛さんのご著書を以前紹介させていただいたが、その安田さんが宣教師の心として紹介しておられる文献にノーベル文学賞作家パール・バック女史の『戦える使徒』がある。この本はパール・バックが父について書いた本である。以下、その冒頭部分の叙述を紹介したい。(『Fighting Angel(邦訳名は「戦える使徒」深沢正策訳ダヴィッド社1955年刊行6〜7頁)

「お父さん。私たちに読ませるために、あなたの生涯がどんなだったか、書きのこしてくださいません?」

なぜかというと、彼は中国を北も南も、東も西も、村落も都会も、のこらず遍歴しているのである。その冒険は幾冊かの著書を満たすにたりるであろう。生死のさかいに彷徨したことも一再ならずあった。そればかりでない。中国人というものを彼ほど親しく見た欧米人はけだし稀であろう。彼は中国人をその日常生活で、結婚式で、病床で、また死の床で—彼らの生活のもっとも切実な瞬間まで見た。そうして中国人が一国として古代からの歴史を繰り返すのも、また見たのである。皇帝の統治、帝国の顛覆、革命、共和政治の開始、ふたたびの革命—それらは彼の眼前に展開した中国の社会相である。

それで彼は七十歳になったとき、自分の観じた生涯を書いた。夏ぢゅう、ひまさえあれば彼は書いた。ほかのものはみな午睡している暑い午後にも、おぼつかない調子で彼が古ぼけたタイプライターを叩く音を私は聞いた。またその音は早朝からも響いた。米国のウエスト・ヴァージ二アの農園で育って、子供のときから早起きの癖のついた彼は、ゆっくり寝ていられないのである。朝寝坊は彼にとって、肉体的に不可能だったばかりでなく、精神的にも敢えてし得ないものであった。

 めざめよ。 わがたましい
 いまこそ、昼なれ
 わざ、やむる夜の、来るは、はやし

夜は来る—夜は来る! 彼は常に人生の短きを忘れなかった。

 人の齢は 草のごとく、
 その栄は 野の花のごとし
 風すぐれば、失せて、あとなく
 その生いいでしところに問えど
 なお、知らざるなり

しかし、こうして完成した彼の七十年の生涯の記録は、たった二十五ページであった。この二十五ページに、彼はその生涯の重要だと思うことを、全部まとめたのである。一時間もかからないで私は読了した。それは彼の霊魂の—不変の霊魂の物語であった。あるところで彼は、その妻たるケアリとの結婚に触れている。また他のところで、妻とのあいだに生まれた子女のことを列記している。ただし、そのなかでも彼は、五歳のときに死んだ、妻のもっとも可愛がった男の子のことをすっかり忘れている。そうして、ほかの子供についても、生まれた事実があげてあるだけで、一言も余計なことが書いていないのである。

けれども、こんな省略は、何事よりも雄弁に彼の記録の本質を語っている。それは、男、女または子供の物語でなく、一つの霊魂がその定められた目標まで、「時」を通して行進した記録だからである。

—この霊魂には人世に生まれた時があった。予定された天職があった。その天職は成就された。あとには天国がある—それが彼の記録の全部である。そのなかには、人間生活が出てこない。饗宴の歓楽もない。愛の喜びも、死のかなしみもない。もちろん、彼が幾度も体験した戦慄すべき危険などについては、何も言及していない。帝国も、皇帝も、革命も、この波瀾万丈だった時代の動きも、そこにはない。人間の精神や態度さては幽遠な哲理に対する思索もない。その物語は、暁に現われた太陽が、蒼天を横切って堂々と行進し、そうして自ら放つ光栄のなかに沈むことなく、極めて単純に語られている。

以上が冒頭部分であるが、娘は父のわずか二十五ページにすぎない梗概を邦訳で二百七十一ページにあたるこの作品とした。その父は八十歳で召される。末尾の部分はその部分である。再び転写する。

すると一週間ばかりして手紙が来た。同時に各地を迂回して中継されたのであろう。電報が届いた。その山上で父は、ある夜、昔の赤痢が再発して、数時間で死んだという。苦痛もなかった。苦しまなかったらしい。ひどく衰弱した肉体から、彼の霊魂は大きなうめき声を立てて自由の境へ離れたという。しかし、肉体は彼の極めて小部分であったから、その最終の静けさも、重大なこととは思えなかった。いずれにしても父は常に肉体から半ば離れていたので、彼の死は、全く肉体から抜け出し、本然の姿—霊体になっただけである。

私たちは真珠の殻を山上に埋めた。そこと天のあいだには何物もさえぎるものがなかった—樹木もない、人家もない。下は岩である。霧は低迷している。風は吹き、日は照らし、星は光を落とす。どこにも人間の声は聞こえない。

今になって思うと、人生の皮肉は底が知れないものだ。幾年かの昔、清き高山のいただきを愛し、そこに住もうと憧れた母は、身もたましいも、中国の都会の中心にある外国人墓地として壁にかこまれた、狭い、暑苦しい、暗い場所に、永遠に葬られている。(略)それだのに彼らの霊魂のために人間ばかりもとめていた父は、高山のいただきに、何物にも煩わされず、寂しく眠っている。(略)母は、生涯、人間性の羈絆や情熱から離れようとあこがれていたが、生涯、人間性は母をとらえていた—母自身の人間性と、全世界の人間性が母をとらえていたのである。その母にとって、死は生命との闘いであり。そうして母は負けた。しかし、父は人間生活の片はしにすら触れたことがない。人生の内容を決して知らなかった。人の世の疑惑も感じなかったし、人と生まれた悩みも味わわずに去った。それが幸福な霊魂としての父の生活であった。そうして彼は自ら死んだことさえ決して悟らなかった。

すべてを投げ打って異国に骨を埋める宣教師の姿が娘の眼を通して正直に語られている。しかしこの宣教師にして娘に正しく福音が伝えられたかどうかは末尾の文章を見ても定かではない。げに宣教師が「神の使徒」たらんとすることの厳しさを改めて痛感させられる。

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(ヨハネ15・13)

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