2014年9月5日金曜日

いちじくの味わい

「姉さんは、幸せ者だ」と私の母は私に良く言っていた。それは母の義兄がいつも姉のことを褒めていたからである。母の言外には、私もそんな家庭を持ちたかった、それにくらべてお父さんは私のことを大切にしてくれないと言わんばかりであった。北海道で米屋さんを営む家に嫁ぎ、そこでは男衆がいて、何不自由もない生活を送っていたようだ。ところが、その最愛の夫を戦争で失くし、それまで留守宅であった内地の婚家先に帰り、古い家を壊して家を新築した。昭和15年(1940年)のことである。そして婚家先の家系が途絶えないようにと養子を迎えた。その間に生まれたのが私である。母は再婚であったが、父は職業軍人で初婚であった。二人は中々の恋愛結婚だったと聞いている。

その母が冒頭のようなぼやきを息子の私に漏らすのだった。それは、誰しもが苦労した戦後のタケノコ生活であったが、母は母で慣れない先祖伝来の田圃の耕作に勤しまざるを得ず、良くやるねと周囲の人から言われたが体を酷使した。そのためか神経痛を患い、片足はびっこで、びっこを引きながら、戦後職業転換をしなければならなかった夫の安月給と家計をにらみ母は懸命の農作業を続けた。その上、小地主であったが小作人との関係がうまく行かず、人知れず悩んだ。勢い夫に対する不満が内訌し、時にはそれがきっかけで夫婦喧嘩が始まることがあった。ひとり息子の私はオロオロするばかりであった。

そんな両親を前にして、自分は絶対円満な家庭を持ちたいと思っていた。両親はそれぞれ懸命に生きていたから、今となっては申し分のない教育を私に施してくれたことがわかるし、夫婦としても特段悪い夫婦関係とは思えぬが、若気の至りと言うか、当時両親は私にとって家庭建設の反面教師になった感があった。

そのような私にとって母の死は大きかった。それだけでなく、父の再婚は私が勧めたものだったが、それはそれでまた新たなやっかいな問題を招いてしまった。運命を呪う気持ちだった。もちろん合理論者としてそれを乗り越えようとした。そのような時に一人の女性を通してイエス・キリストの十字架による罪の赦しを知った。その彼女と結婚した。今の家内である。この家内は何をおいても私を立ててくれる。

昨日、食卓に小さな小ぶりのいちじくがのっかっていた。ほとんど皮は厚くなく、はがすのも面倒だった。そのいちじくを家内が皮を丁寧に剥がし、私に食べてみろと勧める。一口、口に食む。とろけるような甘さと触覚だった。とてもひとりで食べるにはもったいない。半分っこにしようと家内に差し出した。家内はいい(いらない)と言う。どうして?食べればいいのに、と言ったら、「私は今まで十分食べて来たからいい、あなたに最高のものをあげたいのよ」とサラリと言った。

これが彼女の結婚以来の生き方だと思った。どんな出来の悪い亭主でも立てることを心得ている。唯一例外はイエス・キリストに私が従わないときは、私を立てることはしない。前日の夜の家庭集会でベック兄は家庭を第一にする者は、主イエス様を第一にはしない、しかし、主イエス様を第一にする者は家庭をもっとも大切にすると言われた。家庭円満の秘訣は主イエスを家族の中心に迎えることである。運命だと呪った私に素晴らしい主の祝福ある家庭が与えられている。

40年前(1974年)の今日、家内と早朝、団地の芝生の上を急ぎ足で産院へと急いだ。出勤前にはもう生まれていたのではないか。私たちにとっての初めての女の子であった。ためらわず、私は「結実子」と命名した。「結実子」は入学以来、教室で自分の名前が正しく読んでもらえないので悩んだようだが、今ではすっかり自分の名前が気に入っているのではないか(※)。1980年に『実を結ぶいのち』という一冊の本が出版された。まさしく「結実子」の本であった。

神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。(コロサイ1・13)

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ15・5) 

(※と、書いたら当の本人から、そんなこと〈悩んだ〉はない、むしろ誇りこそ覚えたくらいで、自分の名前が最初から好きで今も大好きだ、ありがとうと言う旨のメールがあった。「ハハー、ノンキだね」とは幾つになっても抜けていてお目出度い当方のことにちがいない。)

0 件のコメント:

コメントを投稿