2014年9月17日水曜日

板につかない我らが信仰、されど我らが日々

今日は家庭集会であった。敬愛する主イエス様を信ずるお二人の方がメッセージ・証をしてくださった。それぞれ遠方からお出で願った。もちろん、やはり遠くから聖書のみことばを求めて人々は集まってくださる。会の終了後、一人の友をお見舞いした。日曜日胆管炎のため急遽入院されたからである。この方も本来なら、今日の家庭集会に来られる予定であったからである。

病院は真っ暗な闇の中にひっそりと沈んでいるようだった。病室内に滑り込むようにして入った。哀れであった。友人はベッドに眠り込んでいるようであった。起こすのも悪いのでしばらくじっとしていた。そのうち、看護師さんに様子をお聞きして、「夕食が終わったばかりです、起こして大丈夫ですよ」と言われたので、声をかけた。

半睡の状態だった。睡眠薬の投与を受けておられる感じもしたが、半目を開けた彼に、以前いただいていた北海道の風景(?)を大写しにしたものを下地にしたみことばの絵を見せた。友人は半目を開けた状態で顔をくしゃくしゃにするかのように泣いた。このところ何回かその友人は私との交わりで泣かれることがあるので、そんなにはびっくりはしなかったが、友人は何を思って泣いておられるのか想像できなかった。きっとその風景を見て何かを思い出されたのだろう。問い質すことも慮(おもんぱか)られた。

思わず、祈りましょうと言って、友人の手を取った。友人は目をつむったまま、私のあとにオーム返しに祈られた。「愛するイエス様、病院に入院してしまいました。少しでもよくしてください、どうぞよろしくお願いします。主イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン」

祈り終え、後ろ髪を引かれるように、病室をそっと出て、暗闇の中を自転車でひた走りに走った。再びその友人を想うて、あわれであわれで仕方なかったからである。それにしても私の祈りって何なのだ、もっとましな祈り方があったのでないかと自問自答しながら家に帰った。

早速、友人の様子とその祈りについて家内に話した。家内もその祈りの貧弱さに同感であった。昼間、メッセンジャーはみことばをもって主イエス様とともに味わう幸い、「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を負って来るでしょう」(詩篇23・6)と語ってくださり、証者は証者でその真摯なひたむきな求道の思いが主に受け入れらている幸いを感謝されていたと言うのに・・・。いざ、目の前に瀕死の思いでいるこの友人にその程度の祈りしか出来なかった己が信仰の腑甲斐なさを思い知らされた。

それだけでない。今日の恒例の看板聖句は上掲のものであった。このみことばそのものは今整理中の一連の小林儀八郎さんの1944年8月10日の手紙に記されていた、マニラ行きを目前に、新妻に今後の一切を託して書いた文章の中にあったことばである。

「今度は何時帰れるか判らず、しかも一人で一切やって貰わなくてはならぬ。宅渡金は精一杯らしいから此の内で、不時の費用も一切やって行くつもりでいて下さい。考えるとなかなか大変ではあるが、クヨクヨ考えても「思い煩いて身の丈一尺を加え得んや」です。

そのみことばがどうしても頭から離れず、いつもは新改訳で清書する看板聖句も今日は文語訳で書かせていただいた。それなのに、私の祈りったら、何だと思った。さらに20有余年前のことを思い出させられた。私は宇都宮に癌末期の若い病友を訪ねた。その時、その病友にこのみことばを読んで差し上げた。ところがそれまでがっくり来ていたその病友はやおら布団をはねのけ正座し、彼は私に祈るかのように言ったのだ。

「ああ、私は何と罪深いものでしょう。何でも出来る神様に信頼しないなんて。ごめんなさい。あなたにすべてをお任せします。愛するイエス様。」

それから数日してその友は召された。友は再び苦しんだと聞くが、葬儀は主にある聖書にもとづく葬儀となった。今もその病室の光景が脳裏に焼きついて離れないである。私は今自分を責めると同時に、全能の御手に完全に病友をゆだね、赤子のように信頼して、友のために祈り続けたいと新たに思わされている。

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