蜜を求めて蝶舞う。振り返りて、我が人生もまた。 |
親愛なる我が従妹へ
粗野である私に対してつねに少なからぬ愛情を寄せてくださることを、この機会に感謝申し上げます。まことに貴女は私の手紙や友情に対して、過分なご芳情をくださっておられます。私は自らの愚鈍さを思い、貴女のこのお褒めの手紙をいただいて恥入っております。
しかし、神様が私の霊魂になしてくださったことを公言して神様の御名を崇めることは、今日ただ今の私の確信であり、また将来もそうであります。神様は水の一滴もない、乾いた、不毛の地に泉を湧き起こしてくださることを私は確信いたしております。私はメシェクに住み、ケダルに宿っております。メシェクは延期を意味し、ケダルは暗黒を意味します(※)。しかし主は私を捨てられません。主は延期はされても、ついには主の幕屋まで、主の安息所まで私を連れて行ってくださると信じております。私の魂は長子キリストにつらなる会衆とともにあり、私の体は希望の中に宿っております。そして行為であろうと、苦難であろうと、私の神の御名が崇められますならば私は嬉しいのです。
いかなる人がいらっしゃろうとも、私ほど神様のために身を呈して働かなければならない理由を持つ方はいらっしゃらないでしょう。私は給料をたっぷり前払いとして神様からいただいております。しかし一銭も神様のために私が儲けることができないことは明らかです。主はそのひとり子(=イエス・キリスト)において私を受け、私をして光の中に歩ましめてくださいました。主が光ですから、私たちは光の中を歩めるのです。私たちの暗黒を輝かしてくださるのは主です。主は聖顔(みかお)を私から隠すとは申されないのです。
主は私に主の光のうちに光を見せてくださいました。暗いところに照らされた一つの光はその中に無限の慰めを持っていたのでございます。私のように暗い心を持っていた者を照らして下さった主の御名はまことにほむべきかな!
貴女は私の過去の姿を知っておられるでしょう。そうです、私は暗黒の中に住み、暗黒を愛し、光明を憎んでおりました。私は罪人の首(かしら)であり、私は心から聖いことを憎んでおりました。ところが神様は私に慈悲を上から下さいました。ああ主の恵みの何という豊かさでしょうか。私のために主を賛美してください。私のうちに良きわざを創(はじ)められたことが、キリストの日にそれを完成してくださるように私のために祈ってください。
マシャム家の人々によろしくお伝えください。みなさんの愛に負うところが多いのです。私は皆さんのために主を褒めあげます。また私の息子も皆さんのおかげで健全になりました。主を褒めあげます。願わくは今後も我が息子のために祈り、教えてやってください。また私のためにも。
ご主人様にも、御妹様にもよろしくお伝えください。
これで名残惜しく筆を置きますが、主が貴女とともにあられますようにお祈り申し上げます。
1638年10月13日 エライにて
オリヴアー・クロムエル
エセクス、サー・ウイリヤム・マシャム方
愛する従妹、セント・ジョン夫人様
※引用者注:詩篇120:5に「ああ、哀れな私よ。メシェクに寄留し、ケダルの天幕で暮らすとは」とあります。
以上は、畔上賢造全集第9巻213頁からの引用である。ただし、格調高い畔上氏の翻訳文章は現代人には、今一つ理解が困難があると思われるので、あえて現代風に表現を改めた。なお、この手紙はクロムエル39歳の時のものである。59歳で召される彼の人生はその後の20年間もまた主の前に検証さるべき生涯であったろう。しかし、この手紙を解説するに際してカーライルは次のように述べている。これに関しては畔上氏の翻訳原文のまま転写する。
「ここに人が霊魂を有せしこと、神とともに歩みしことの証がある。彼は「上へ召して賜うところの褒美を得んと標準(めあて)に向いて進」(ピリピ3:14)んだのである。一度神の道に従う、苦難窮乏何かあらん。恩恵既に足る、ただ己を殺して神の許に投ずる。生くるも死ぬるも主の思いのままである。これがクロムエルの信仰であった。読者よ、かかる経験を有するか。もし有せずば、現世(このよ)の行路は平安ならんも、天の光を宿すことは出来ぬ、天の光を放つことは出来ぬ。」
1638年の手紙は、遺されている二百余通のうちの初めから二通目のものであるが、まことに彼の思い・信仰はイングランドの死命を制する要路にあっても、変わらなかったのではないかと思う。
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