2023年5月30日火曜日

横紙破りの弁解と悔い改め

忘れたり 聖霊降る 記念日を
 先ほど、所用あって外出した。東口の教会の前を通った。日曜日の牧師さんの説教題なのだろう、一枚の看板が置かれたままだった。「聖霊降臨記念日『教会の原点』」と縦二列に習字できれいに書かれていた。私は内心「しまった」と思った。伊勢崎の日曜礼拝の時、全くそのことを意識していなかったからである。

 そう言えば、パリ在住の次男が家族へのLINEの中で、5/18の日付で、過ぎ去った十年間の彼ら夫婦の歩みをふりかえり、主イエス様に守られて今日まで来たことを感謝する証をしていたが、最後に一言「今日はこちらでは(イエス様の)昇天記念日です」と書き添えていたことを思い出した。先週土曜日にミュンヘンから短期出張で帰ってきた長男も何やら記念日のことを言っていた。欧米のキリスト教国では常識なのであろう(信仰を抜きにしてだが・・・)。

 いったい、事実はどうなのだろうと、手持ちのスコフィールドの『HOLY BYBLE scofield references 』を調べてみたら、何とそのものずばりが表示されていた。すなわち
 Events                                Place         Time
(できごと)        (場所)   (時)

The ascension                      Bethany    Thur. , May 18
(昇天)          (ベタニヤ) (木曜日、5月18日)

Holy spirit given Pentecost   Jerusalem  Sun. , May 28
(聖霊降臨、ペンテコステ) (エルサレム)(日曜日、5月28日)

である。この書物自身は1945年版(printed in Great Britain)で、古書で10数年前に手にしたものだから、もちろん、2023年のことは関知しないのである。ところが、たまたまこのようにぴったりと日時が合っていた。私に事前にこの聖霊降臨の日についての意識があったら、昨日、記したようなメッセージの引用箇所で済ませなかったであろう。

 実は、教会の前を通った時、『教会の原点』ということばに思うことがあった。確かに教会暦を無視して礼拝をしていた自分自身に弁解の余地はない。しかし、だからと言って、伊勢崎での15名の礼拝が「教会」でないはずはない、むしろ互いに主イエス様を中心にして礼拝・交わりを与えられたという点では、人後に落ちないと思っているからである。でも、それがいつどういうことで始まったか、それをもう一度それぞれが問うて「原点」に立ち返ってみる必要があったと思わされたのだ。

 「教会」と言うと、多くの方は手っ取り早く教会の建物を連想されるのでないだろうか。私も最初出かけた教会はステンドグラスのあるカトリック教会であった。そこでおごそかなオルガンの音の洪水に浸れば、魂の浄化ができると思っていた。また深淵な神の世界はそうして知るものだとばかり思っていた。

 ところが、のちに、自分の罪を認め、主イエス様を自分の救い主として信じ、聖書を読むに連れ、徐々に「教会は建物ではない」と、知るようになった。聖霊なる神様が主イエス様を信ずる時に、私のうちに働き、主の愛をくださり、何物をも恐れる必要がないことが徐々にわかってきた。その上、主を信ずる者同士が神の子として互いに兄弟姉妹と呼び合う親密な間柄に導かれた。そしてその集合体、個々の信者からなる有機的な「からだ」が教会であり、その教会のかしらがイエス様であることを体験するようになった。

 そのような聖霊の降臨こそ、教会の原点である。イエス様は、今年の暦で言うなら、5/18の昇天の時、次のように言われた。

聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てまで、わたしの証人となります。(新約聖書 使徒の働き1章8節)

 その始まりが、昇天後10日にして実現した、5/28の聖霊降臨であった。長いが、聖書に書いていることをそのまま書き写してみる。

五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが天下のあらゆる国から来て住んでいたが、この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」(新約聖書 使徒の働き2章1〜11節)

 こうして聖霊なる神様はいつも私たちに語りかけてくださり、距離や性別や年齢や趣味や、ある場合には言語さえ超えて、主を信ずる者をひとつにしてくださるのである。それにしても結婚記念日を忘れることは、相手に失礼であり、愛がないと言われればぐうの音が出ない。

 聖霊降臨の記念日を忘れるようでは、イエス様への愛も地に堕ちたと言える。私ごとだが、今年は結婚記念日も忘れた。今後は自戒して歩みたいものだ。なお、掲載の写真は、伊勢崎の家の教会とされた、建物である。

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