2023年9月25日月曜日

大関和(おおぜき ちか)物語(中)

七人の こども戯る 秋日
 こどもの姿を見るのは楽しい。近寄って仲間に入れてもらいたくなる。大関和は終生こどもを愛した。そのような中で二人のこども(六郎と心)を置いて(母にまかせて)の看護婦への道、看護婦養成者としての道は患難と忍耐の日々だったにちがいない。そんな大関和の生涯を著者は等身大で描いてみせる。

 「等身大」とは何であろうか?私たち普通の人間が抱く感情・葛藤はこのような偉人の中にも存在すること(への共感)である。そもそも私が昨日のブログでナイチンゲールについて記した思い、特別視こそ、見当違いな見方であったと、この本を読んで思わされ、反省させられた。

 ナイチンゲールこそ、かのクリミア戦争の場にあって敵味方を問わず人々のいのちを守るために働いた人であった。そのナイチンゲールの到達点となったのが「トレインド・ナース」であった。それまで日本では「看病婦」こそ存在したが、それは卑しめられた職業であった、と言う。医療行為のすべてについてその技能を完全に習得した上で病人にあたる、そして医師と同等の立場で働く「トレインド・ナース」(看護婦)が育つことであった。

 そのために立ち上がったのが、数名のアメリカの宣教師、それを支えるアメリカのキリスト者たち、また日本のキリスト者であった。「耶蘇」と忌み嫌っていた家族の一員である大関和が、キリスト教に惹かれていったのは、二つあったと言う。一つは妾を容認する日本社会に対して、聖書の原則が一夫一婦制にあることの意義(※)、二つは讃美歌の存在であった。その彼女に看護婦の道備えをしたのが、和に洗礼を授けることになる牧師植村正久であり、アメリカ人のリディア・バラ、マリア・トゥルーの祈りであった。

 大関和にとって、家族以外に、生涯その心の中にあったのは、婚家先で過ごした四年間の間に、姑に命ぜられるまま、不毛の田んぼを一人前にするために、手伝ってくれた婚家先の夫の妾の子・綾、小作の娘マツの存在であった。その二人がある日突然いなくなった。

 自らの二人のこどもを何よりもたいせつにした大関和は、このように愛する綾が、またマツが家の借金の肩代わりに売られて、女郎の境涯に閉じ込められているにちがいないという何とも言えない哀憐の情を持ち続けたのであった。著者はその大関和をこのような心の内部から突き動かした事実を描いて行く。

 戊辰(ぼしん)戦争、日清戦争、日露戦争、関東大震災、コレラ、赤痢の流行、どれ一つとして、大関和にとって無関心であり得た出来事はなかった。そのような中で「トレインド・ナース」として結実していった歴史がたどられる。著者は、この一人の人間の手に余る事業をバランス感覚よく、彼女のライバルと言っても良い鈴木雅(昨日の絵の中央のアグネスの左側の女性)との協力関係をとおして描写して行く。そこには「シテ」と「ワキ」を思わせる微妙な関係が描写され、「トレインド・ナース」とは何かが具体的にわかる和と雅の対話として創作されている。

 最後に大関和と牧師植村正久について書かれているエピソードを紹介しておく。それは大関和が困難にさしかかるとき、必ずと言っていいほど、牧師のところに昼夜を問わず人力車を走らせては相談に行った事実である。そのことについて、身近にあった植村牧師の三女環が次のように記しているという。

「大関ちか女史は傑出した婦人であったが、よく泣かれた。繁々来られては堰(せき)を切って落とされる。すると大関さんを愛敬していた父は慰めるのか揶揄(からか)うのか分からぬ調子で『あなたはナイチンゲールなんでしょう。それじゃ宛然(えんぜん)『泣キチン蛙』ではないか』などといっていた」(同書110頁より)

 しかもこの大関和が最愛の娘「心」を亡くした時には、その悲しみのあまり、とうとう牧師の許を去って行く。しかし著者はその後の大関和の姿を描写することを忘れてはいない。それは明治29年の三陸地震の時、全家族を失った元漁師が行き倒れ寸前にクリスチャンに助けられ入信したが、炊き出しを受けざるを得ない境遇にあったとき、病を得て、大関和看護婦と出会う場面である。明日はその次第を同書から抜粋引用させていただく。

※今日の主題とは直接関係ないが、私は次の一人のご婦人が亡くなる前にこどもたちに残された遺言が一夫一婦制の真実を証しているのでないかと思う。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2023/05/blog-post_23.html

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(新約聖書 マタイの福音書11章28節)

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