2023年9月30日土曜日

待ち焦がれた「秋」、待ち焦がれた「画鋲」

秋よ来い 渇ける魂を 癒すため
 明日から10月、と言うのに、この暑さはいったい何なのだろう。ただ、観念は秋モードになり、すっかり心のうちを静かに問う季節になっていることはありがたいことだ。そんな中で今日は夕方、ずっと書かずに済ましていた家の前の看板(みことばを書くためと、キリスト者の友が東南の角地に位置する庭の植え込みを利用して設置してくれた)に、聖書のことばを久方ぶりに筆で認(したた)めた。このところ、散歩から帰るたびに、何も書かれていない看板の木目がいやに気になり、本来あるべき聖書のことばが、私の怠慢で記されていないことに心が傷んでいた。

 いつごろから書かなくなったか覚えていない。かれこれ4、5年掲げていない気がする。気になって、看板聖句は大体家庭集会のたびに書いていたので、そもそも家庭集会はいつごろ閉じられたのか、あれやこれやの資料を駆使して調べてみたら、2020年の2月に高齢のご婦人の召天を記念して家庭集会を持ったのが最後だった。1990年5月以来(※)、31年間続いた家庭集会は気がついたら、あっと言う間になくなっていた。コロナ禍が始まった時と軌を一(いつ)にしていることは人の思いを越える主なる神様がご計画された事柄であった。

 すると、少なくとも四年間、看板聖句は姿を消していたことになる。当時、通りすがりの友人から、よく「もう家庭集会はやめたのですか(信仰を捨てたのですか)」と言われたり、共産党シンパの方は看板聖句が出るたびに、呼び鈴を押しては、「(看板に書いてある)みことばの意味を説明してください」と玄関先に来られていた人だけに、「どうして書かないのですか」とも言われて、曖昧に答えたりしていた。それらの方もこの四年間のうちにすっかり諦められたようで申し訳ない思いが今もしている。明らかに私自身の信仰が萎(な)えてしまっていることに原因があった。

 その私がなぜ今日は奮い立って看板聖句を書く気になったかと言うと、今朝聖書を読んでいて、次のみことばに元気をいただいたからである。

真理と愛のうちに、御父と御父の御子イエス・キリストから来る恵みとあわれみと平安は、私たちとともにあります。(新約聖書 ヨハネの手紙第二 3節)

 このことばは、ヨハネが夫人とその子どもたちに書いた手紙の文句だが、何度読んでも、私自身が持ち得ない真理と愛は、すべて父なる神と主イエス・キリストが用意していてくださるのだということにハッと思い至ったからである。

 現に、看板には四年間、使われずに放置していた画鋲が刺されたまま、5、6個残っていた(こども用の習字用紙に毛筆で書き、その2枚を貼り合わせるのに用いていた)。風雪のもとすっかり錆びてはいたが健在だった。それは私の怠慢をじっと我慢していてくださった神の愛のあらわれに他ならないと思わされた。早速、昼間の交わりで私の決心を知り、一声かけてくださった冒頭のキリスト者とは別の友に、この喜びをLINEで知らせたところ「おー。辛抱強い画鋲。鋲は鉄の兵隊ですね」と感想を寄こしてくださった。まことにそのとおりで、神が遣わされた兵隊を思うた。

※このことについてはブログのあちらこちらで触れているが、次のものなどその一つである。終わりまで読んでいただけると、その時の様子は少しはお分かり願えると思う。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2016/09/blog-post_28.html

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