今月も、今日で終わりです。苦しめられた長い夏の期間もやっと終わり、これが本来の秋の季節なのかと思いながらも、今度は今度でまた寒い冬に向かうのかと新たな警戒心で身構えている愚かな私です。結局、9月の投稿は近来になくわずか六通に留まりました。原因は、この9月の異常な暑さと、その中で鈍行列車による二度の故郷への往復、叔母の法事参加、友の召天などがあり、様々なことを考えさせられ、日常茶飯事の出来事を筆にするのがおっくうになったことにあります(一方で、世間を見ると、正月地震に遭い、再び度重なる豪雨の災害の中で「神も仏もない」と慨嘆された方の声の哀れさに胸が締め付けられます)。
2024年9月30日月曜日
主にあって愛する友の召天(下)
今月も、今日で終わりです。苦しめられた長い夏の期間もやっと終わり、これが本来の秋の季節なのかと思いながらも、今度は今度でまた寒い冬に向かうのかと新たな警戒心で身構えている愚かな私です。結局、9月の投稿は近来になくわずか六通に留まりました。原因は、この9月の異常な暑さと、その中で鈍行列車による二度の故郷への往復、叔母の法事参加、友の召天などがあり、様々なことを考えさせられ、日常茶飯事の出来事を筆にするのがおっくうになったことにあります(一方で、世間を見ると、正月地震に遭い、再び度重なる豪雨の災害の中で「神も仏もない」と慨嘆された方の声の哀れさに胸が締め付けられます)。
2024年9月26日木曜日
主にあって愛する友の召天(中)
久方ぶりに、白鷺の群れを見つけました。依然としてセミの声がかすかに聞こえてきます。暑かった今年の夏はまだ決して終わらないよ、と言わんばかりに。けれどもこの白鷺を見ていると、やはり秋は訪れて来たのかな、と思わされております。
昨日は敬愛する友の召天の集いが持たれました。ご親族の方、ご近所の方、かつての職場の方、キリスト集会の方それぞれが集まられました。集いの中で次々と登壇(?)される方が、友のありし日のわざを通して励まされてきた次第を語られました。私はそれを聞きながら、何と友は皆さんに愛されたお方であったのかと思わされました。
私もそのうちの一人として話させていただきましたが、私にとって最大の思い出は静かに召されていった友を交えて祈り、賛美し、みことばを拝読したその時の雰囲気でした。そこには少なくとも「泣き叫び」はありませんでした。「涙」はあったと思いますし、これからじわじわとその「悲しみ」は遺族である奥様とお嬢さんに襲ってくることだと思いますが、一方で天の御国でいずれ再会できるのだという望みがあることを確信しております。
私は臨終の場で様々なみことばを友に良かれと思って朗読しましたが、前回も書きましたが、どうしてピリピ3章20〜21節を読んで差し上げなかったのか、友が召された夕方家に帰ってから己が不明を自らに責めていました。ところが、その夕の輪読個所の、ルカの福音書8章を読み進めるうちに、主イエス様の絶大な力と愛を改めて知って大いに慰められたのです。
それはこういう次第です。この8章にはいろんなことが書いていますが、最終場面に書かれている一つの出来事があります。会堂管理者ヤイロの一人娘が死に瀕(ひん)してる時、ヤイロはイエス・キリストに救い(癒し)を求めてやってきて、主の前にひざまずきます。主はこのヤイロの願いに直ちに答えられ、ヤイロの家にと急行されます。しかし、その途中に別の婦人の病の癒しの求めがあり、それに応えられていたため、娘の死が間近に迫っていて、いっときも早く行って欲しいというヤイロの願いがむなしくも邪魔されます。そのうちに、家の方から連絡が入り、娘さんは死んだ、もうイエス様に来てもらう必要がないと伝わります。
その報に接し、恐らく顔色を失ったであろうヤイロに主イエス様ははっきりと「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」と言われたのです。そしてイエス様とヤイロが家に直行すると、案の定、家には娘が亡くなっていたのです。その後がどのように書かれているのか、ルカの福音書の記事を丸写ししてみます。52節から55節にかけてのところです。
人々はみな娘のために泣き悲しんでいた。しかしイエスは言われた。「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。」人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑っていた。しかしイエスは、娘の手を取って、叫んで言われた。「子どもよ。起きなさい。」すると、娘の霊が戻って、娘はただちに起き上がった。・・・
私はこのくだりを読んで大変慰められたのです。それは死者は主のことばによって生き返らされるという信じられない奇蹟です。そして、主にあっては、人の神様に応答する「霊」(いのち)こそすべてであり、イエス様は霊に呼びかけられるという事実です。生きている時に、どうしてピリピ3章20〜21節を友に読んであげなかったかという私の悔いは無意味であると思ったからです。
友が息をしている間に私も有名な詩篇23篇はもちろんのこと、イエス様のおことばであるヨハネの福音書14章1〜3節をはじめとして様々なみことばを読ませていただきました。ただ迂闊にも落としたのがピリピ3章20〜21節だったのですが、私は知らず知らず人間の目で判断した、生と死に分けてしまっていて、主にとっては「死んだのではない。眠っているのです。」というご自身の復活を通して死に勝利された方の「死」に対する見方から離れてしまっていたことが分かったからです。
その上、主のことばは様々ですが、どれ一つとっても無駄な言葉はなく、それぞれが主に応答する時の人間の喜び・力となるということを思ったからです。確かに、友の体は、昨日すぐに火葬に付されお骨に変えられましたが、主を信ずる者にとって、それが終わりでなく、主イエス・キリストが再び来られ、霊の眠りの状態から目覚めさせてくださる時が来るのです。
藤本正高さんはその著書(『藤本正高著作集第二巻』162頁より)の中で次のように言っておられます。「主イエスには、人の死は皆寝た姿に見えるのです。キリスト再臨のときに目覚めるまで、寝ているに過ぎません。このことがわからない時に私どもは泣くのです。ほんとの意味の死は、人間が神から離れることであって、霊が肉から離れることではありません。」
友の場合、生きている時、主の御声を聞き、主に信頼していました。それが友の信仰生活でした。友は息を引き取りました。その時、友の霊は肉体を離れ、主イエス様の身元に行ったのです。もはや肉体という姿で友と会うことはできません。しかし、霊はまさに主が再び来られる時、主の呼び声で一挙にヤイロの娘のようによみがえるのです。ヤイロの娘のよみがえりは再臨の時、私たち主を信ずる者が経験することをあらかじめ示す一つの予表ではないでしょうか。それがどのようにしてかはわかりませんが、友が召された日、自分の自宅に帰って私が強く示されたことです。
最後にそのことを語っている聖書のことばを写しておきます。
聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。(新約聖書 1コリント15章51〜54節)
2024年9月21日土曜日
主にあって愛する友の召天(上)
今日は愛する友の誕生日でした。しかし、三日前の18日(水)、友は天に召されました。84歳を迎える直前でした。この写真の風景は、その友が元気な時、いや病を得てもその旺盛な精神力で半年前までは歩き続けたであろう古利根川べりの土手付近の光景です。
友は持病の糖尿病や高血圧対策もあって、以前から一日一万歩もの距離を物ともせずに、古利根川沿いを歩きに歩き続けておられました。その友の話を聞いて、私もそれに比べると小距離でしたが、古利根川散策を実行するようになりました。言ってみれば、私にとって、古利根川散策の生みの親と言っていい方です。召された日の翌日、その友のことを思いながら妻と散策し、しばし友の元気なおりの姿を偲びました。
友が、食道がんを患い、手術したのはほぼ2年半ほど前でした。病の進行とともに喉を切開し、それ以来、お話は一切できず、私たちとの交わりも筆談を通してするしかありませんでした。時折、お訪ねする折も、友は健気にもホワイトボードを持ち出し、文字を書き、私たちはその字を追うという手間のかかるものでしたが、しかし貴重なお交わりのひとときとなりました。
さて、友は私たちより一足先に天国に召されて行ったのです。その日の午後、奥様から、「主人が何も食べなくなった。息を引き取るのが真近に迫っている。兄をはじめ親族がいるが、なにぶんそれぞれ遠方で高齢で病を得ている。来ていただけませんか」と電話がありました。前日に彦根で叔母の法事を終えて帰ってきたばかりでした。まったくこれは無駄のない主のご計画だと思わされました。一週間ほど前に病院にお見舞いに行った時も不思議と面会が許され、事態が深刻なことを理解していましたので、帰省中に召されることがあってはならぬという焦燥感を抱いていたからです。
16日(月)私は叔母の法事に彦根で参加していました。同じ頃、友は、春日部の病院を出て、在宅看護を受けるべく自宅に戻られました。看護師さんの話によると、体は衰弱し切っていたが、お顔は晴々となさっていたそうです。しかし、家に戻って、まだ一、二日も経たないうちに、このように、臨終の時が迫ってきたのです。友は、急を聞いて駆けつけた私たちに笑顔で応じてくださいました。もちろん体はお痩せになり、頬がげっそりと落ちて、一目で闘病の激しさが窺われました。
その間、奥様と私たち夫婦で、聖書のみことばを朗読したり、讃美したり、お祈りしながら時が経って行きました。友は、その私たちと声を合わせるかのように、しきりと口を動かしておられました(奥様のその後のお話によると、実際は呼吸を整える必要があってのものだったようですが)。静かなひとときが続きました。そのうちに奥さんはベッドに横たわり、身動きのできないご主人の耳元に口を寄せ、しきりと語り続けておられました。何分かするうちに、ご主人が反応を示されなくなる時が来ました。付き添っておられた看護師さんが、急いで瞳孔を確認され、聴診器で確認されると、もはや息をしておられない状態でした。友の霊はこの時、静かに天の御国へと移されて行ったのです。
それからずいぶん時間が経ってから、お医者さんが来てくださり、死亡確認をしてくださいました。私たちは静かに、目の前でその後の処置をしてくださる看護師さんたちにおゆだねしながら、さらに時を過ごさせていただきました。その間であったでしょうか、室内に掲示しておられる何点かの絵があることに気づきました。そのうちの一点にジョルジュ・ルオーの『郊外のキリスト』という作品がありました(※)。
私には、私たちがすべてを主イエス様におゆだねしているその姿に、ふさわしい絵と映りました。私は奥さんに箴言6章22節をプレゼントし、今後の歩みもふくめ、主のお約束を一緒に聖書をとおして確認させていただきました。別の病を得て入院中の一人娘のお嬢さんも、この時お父さんのために祈っておられたと思いますが、一方、春日部キリスト集会ではこの間、別会場で並行して集会が持たれており、その席で、友の8年前、2016年6月21日になさった証を聞いて、友のために祈って下さっていたそうです。それを終えて、馳せ参じて下さった方に最後、感謝のお祈りをしていただきました。その冒頭でピリピ3章21〜22節のみことばがその方の口をついて出てきました。私はそのみことばを耳にしながら、これこそ今の友に最もふさわしいみことばだなーと思わされました。
私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。(新約聖書 ピリピ3章20〜21節)
今まで臨終の席に立ち合わせていただいたのは、当然ですが、ほんの少しです。高校3年の卒業直後の1961年の母の死の時、1994年の6月の継母の召天の時とわずか二回です。(1981年に毛呂山の病院に入院中の父が亡くなった時は、ちょうど私は春日部の教会で礼拝をささげていたので、その死を知りませんでした。何も知らず、いつもの調子で電車を乗り継いで、父の大好物の品々をあつらえて、やっとたどり着いた先に、待ち構えていたのは変わり果てた父の姿でした・・・・)
私は1970年に主イエス様を信じました。それよりも10年前の1961年に病院で息を引き取った母の死は救い主イエス様を知らず、信じていなかったので、悲しみ以外の何物も感ぜられませんでした。ところが1981年の父の突然の死は臨終にこそ立ち会えませんでしたが、敬愛する主にある兄姉の祈りに支えられ、父の死を主からの祝福と受け止めることができました(ローマ8章28節)。そして、1994年の、主を信ずるように変えられた継母の召天は家族にとり、最大の出来事でありましたが、その召天を真心から主に感謝するひとときとなりました。
それに比べ、今回の友の召天のひとときは、静かなうちにも、死から生へ、死からの復活が何か見えるような思いにさせられました。そして、主が罪と死に苦しまざるを得ない私たちに、その愛がどんなに、私たちの分を超えた愛か、罪人を天国に導いてくださる出来事であるかをしみじみと味わせてくださる時であったように思います。もちろんご家族にとって愛するご主人、またお父さんを地上で失くす喪失感は増しこそすれ、その悲しみは尽きないと思います。しかし、主なる神様はきっと残されたご遺族を豊かに導いてくださると確信する者であります。・
※私が友人の家で見たものは、奥様が1988年に読売新聞に載ったものを見つけ、切り抜き貼り出して額に納めておかれたものでした。したがって白黒版でした。それにもかかわらす、上記のいきさつで惹かれてしまったのです。ルオーについてまったく何も知らない私にとり、下記のブログは、ルオーの作品の原色版であり、その解説を読み、大変な慰めを受けました。どういうどなたのブログかわからないのですが、以下にそのサイトを載せておきます。http://suesue201.blog64.fc2.com/blog-entry-320.html
2024年9月20日金曜日
叔母の思い出(下)
これは、何と読めばいいのでしょうか(※)。9月16日(月)、彦根の叔母の十七回忌に出席したおり、玄関の上がり端に飾られていた額です。叔母は、晩年、このような書をたくさん書いていました。一度、「遊」というたった一文字を大きな和紙に大書した作品を見たことがあります。それは、子どもたちが、楽しげに遊ぶ姿を彷彿させる字で、見ていて楽しくなり、その大胆な構成に驚いたことがあります。
2024年9月10日火曜日
ああ、伊吹山!
「伊吹山」です。手前の川は、「姉川」のつもりです。先週土曜日(9/7)、米原発大垣行きの列車の車窓から撮りました。伊吹山は父の故郷です。その父は農学校を卒業して師範を目指しました。残念ながら、不合格でしたが、臨時教員養成所に入り、教員の道を歩んだようです。それが戦前の父の姿でした。
しかし、私が父の仕事を知った時は、教員でなく、農林省の食糧検査官としての父でした。私は父にそのへんの事情を尋ねることもなく、また父も話さなかったために、詳しいことは知らず仕舞いでした。その父は1981年(昭和56年)に69歳で召されました。
召されて後に、父の日記やアルバムなどを見て、父の思いを少し知るようになりました。師範を受験する際の猛勉強も日記に記していましたし、教員になってからの記録には「姉川」のことが書いてあり、私にとって。車窓からとは言え、いつも食い入るように見る風景の一つです。
この伊吹山(※)には二回程度登った記憶があります。多分父に連れられての登山だったと思いますが、それ以上の記憶がありません。ほとんど、この山野を駆け巡ったであろう父は。夫を戦争で亡くした母が嫁ぎ先のお家存続のためにと切望した家(私が後継として誕生することになる)に婿養子として、入りましたが、伊吹の実家は猛反対だったようです(戦争未亡人の家に男子たる者が何を好んで入るのかと・・・)。
そのために父もそうおいそれと伊吹には帰らなかったのではないでしょうか。そしてそんな私が何も知らないまま、ましてや夫婦間の愛情も知らないうちに、私に植え付けられた感情は父の「不甲斐なさ」でした。この微妙な私の感情はいつの間にか、父に対する尊敬心を持つことなく、育ってしまいました。主なる神様は無条件に父を尊敬せよとおっしゃっているのに。これが、私が気づかないうちに持ち続けた「罪」のひとつの始まりでした。
今、私はそのことを思うて、父に済まなかったと思い、車窓からこの伊吹山を眺めるのです。私の好きな萩原朔太郎の「旅上」には、フランスへの憧れがありますが、私にとって「車窓によりかかる」ことはそれとまた違った父恋しさの感情にとらわれる時です。
※この伊吹山について、東京新聞社説(8/11)で「山の花畑は夢の痕跡か」と題して「山の日」にちなんで書かれていました。冒頭、「日本百名山」の著者である深田久弥の文章が伊吹山について述べた文が一部紹介されていました。<薬草の山として知られた。(中略)。織田信長が南蛮人に命じて海外の薬草をもたらさせ、この山に方五千町の薬園を作った>
子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。(新約聖書 エペソ6章1〜4節)
2024年9月2日月曜日
長月よ、こんにちは
あなたの母の教えを捨てるな。
あなたの首の回りに結びつけよ。