2016年9月14日水曜日

誰が私たちに刃向かうことができようか

「母と子・岩山」60号変 油絵 西澤茂樹※
主があなたがたのために戦われる。(出エジプト14:14)

 モーセがイスラエルの子どもたちに紅海の岸辺でこのように言ったとき、彼らはどんなに喜んだことだろうか。なぜなら、彼らが「目を上げて見ると、なんと、エジプト人が彼らのあとに迫っているではないか。イスラエル人は非常に恐れた(出エジプト14:10)」からである。エジプト人はイスラエル人にとって残酷な主人であり、彼らを追跡するための馬や戦車をたくさん持っていた。その上、イスラエル人の目の前には紅海が迫っていた。ボートは一つとして無かった。

 恐らく、イスラエル人のうちのある者たちは逃げようたって無駄だと考えただろう。彼らは追い越され、征服されるだけであったろう。それは以前よりももっと悪い状態であったろう。だからなすがままにされるはずであった。ところが、神様は彼らのために彼らが考えなかった方法で戦われた。なぜなら「主はその日イスラエルをエジプトの手から救われた。イスラエルは海辺に死んでいるエジプト人を見た(出エジプト14:30)」からである。

 ところであなたのエジプト人はどうか。怒りやすい気質、いらいらした言葉遣い、空しくも愚かな考え 、悪い癖、それらはどんなにしばしばあなたに打ち勝つことか。あなたはそれらに対してどれだけしばしば戦おうとし失敗したことか、その結果、ほとんど戦いは無駄で、それらに勝ったりそれらから逃げたりする方法は見つからないと思われた。あなたは戦おうとしているが、今までと全く同じように絶えず打ち負かされることを「非常に恐れて」いるのだろうか。

 さあ、今こそ神の真実で、力強いあなたに対する約束を聞け。「主があなたがたのために戦われる(出エジプト14:14)。」そうだ、あなたが主のみことばを信じ、主に戦いをおまかせし、主にあなたのために戦ってもらうことだけをするなら、あなたのためにも主は戦ってくださる。

 
まさしくそうだ
あなたが試みに会い
なす術も知らないとき
イエス様に心配を投げかけなさい
そうすれば主はあなたのために光となってくださるだろう
天から与えられる信仰・希望・愛のかぶとを身につけなさい
そうすれば戦いが終わるとき
あなたは上なる主とともに凱歌を治めるであろう
 
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/september-14-who-can-be-against-us/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97422です。

※Godhold Beck(23)
 今日の絵は先週土曜日に訪れた銀座ギャルリー・コパンダールで拝見した油絵である。家内の高校の同級生の方と言うのでうかがったが、何とその方は昨日火曜の学び会で証なさった谷口幸三郎さんと同門であり、名前をご存知であった。偶然の出会いとは言え、主をいつどこででも証しなさいとは、ベック兄が率先して示されていた日常生活であった。岩山に母と子が連れ添っている、きわめてヒューマンな世界に、果たしてハヴァガルの指し示す主の御力をどのようにお示しできるのであろうかと思う。

 ところで、今日は家庭集会の日だった。70名ほどの方とともにメッセージとお証に耳を傾けさせていただいた。お二人とも外見からは窺い知れない多くの苦難を経験されて練りきよめられていく信仰の実質を伝えてくださった、またとない機会となった。この苦難こそヒューマンなものが通じない世界であることを改めて覚える。

 それにしても証をお聞きしていて、主イエス様に従うとは、こんなにまでして従わねばならないのかと思わされた。程度こそはるかに及ばないが、私にも今日のお証の方と同じような苦難を少しだけ経験させられたことがある。しかしそれは片鱗にとどまってしまった。妥協してしまった、イエス様から目を離してしまったからである。逆に徹頭徹尾主イエス様に従われているこの方だからこそ、ただひたすら主イエス様のみわざを賛美できる。今苦難のただ中にある人に主イエス様にある生き方のすばらしさが伝えられるのだと思った。

 「家庭集会」は「救いの場」であると同時にこのように互いの信徒が成長する場でもある。歳を取り、からだが弱くなり、26年間無我夢中でさせていただいてきた家庭集会もいずれ終焉の時期を迎える。ベック兄が最後まで福音の最前線におられたように歩めればどんなに幸いであろうか。今一度ベック兄の「家庭集会」の勧めの記事〈「神の愛」下巻所収〉を顧みる日々である。) 

2016年9月13日火曜日

信頼

私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。(ローマ5:6) 
主よ。あなたは、私たちのために平和を備えておられます。私たちのなすすべてのわざも、あなたが私たちのためにしてくださったのですから。(イザヤ26:12)

 主なしには私たちは何一つできないが、私たちのなすすべてのわざは、主が、私たちのうちになしてくださるにちがいないという事実を確信し、また、そのことをさらにもっと確かだと思うにいたるまで、何と時間がかかることでしょう。

 このことは神様の働きです。あなたがたが主が送られた御子を信ずるのも。私たちが信じ続け、信頼し続けることも実に神様の働きです。ですから、主を、破壊されない断固とした信頼をもって信頼したいと願い求める愛する友よ、努力をやめ、重荷を下ろし、今、主に対する信仰にゆだねなさい。

 私たちが主にご自身のために取り上げて保持していただきたいと望む複雑な生活のどの部分も同じように、主はまさしく保持できるのです(He is just as well able to keep that as any other part of the complex lives which we want Him to take and keep for Himself.)。ですから、おお、「そうだ、それはいい考えだ。恐らく私もそんな大きな助けを見つけられるはずだ」という考えに満足してしまわないでください。そうではなく、「今、それをしなさい(2サムエル3:18)。」

 船乗りがただちに適切に舵を取らなければ、暗い海を横断する燈台の灯火を見ても助けにはならないでしょう。

私はあなたに信頼しています 主イエス様
ただあなただけに信頼しています
あなたに信頼すると完全な救いを得ます
それは偉大にして自由な救いです 

私はあなたに信頼しています 主イエス様
決して私を振り落とさないでください

私はあなたに信頼しています
とこしえに そして すべてを 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/september-13-trusting/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97421です。英文を併記したところは誤訳だと思うところである。この部分が一つのポイントであるはずなのにふさわしい訳が思い当たらない。読者のご指導を仰ぎたい。

※Godhold Beck(22)
 日に日にベック兄が召された日が遠ざかって行く。けれども、たくさんのベック兄が語られたメッセージのテープがあり、それをお聞きしているととても召されたとは、思えないくらい、ベック兄を身近に覚えられるのは文明の利器とは言え、有難い。

 ベック兄が召されて初めて、たくさんあるテープをどうしようかと思い、整理をし始めた。先ずは1990年から1994、5年のテープであるが何百本あるか分からない。そしてお目当てのベック兄のテープもさることながら、実に多くの方が集会を訪れ、メッセージをされたその事実に改めて感謝の思いを新たにさせられている。

 それと同時に、その当時の私たちの集会の中にいる一人一人の救いの喜びの声が満載しているのにも驚かされている。ベック兄も何年のメッセージであったかは忘れたが、昨年は一年に二百数十名の人が洗礼を受けたと語っておられる。折しも今日の学び会では1991年〈平成3年〉3月3日に洗礼を受けた私たちの仲間が、自らの救いとご両親の救いを喜んで証された。

 その救いへのスタートは、知人からお会いしたいと連絡を受け、全く見ず知らずの私どもの家の前の路上で会うことから始まったようだ。何も知らずにその知人の方に誘われるままに出席した家庭集会がきっかけとなり、その間に一つの聖書のみことばに出会われる。そのみことばとは「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」〈箴言29:25〉であった。才能ある絵描きであったように見えたその人にも悩みがあった。それは評論家を初めとする人間の評価であった。

 一人一人の救いは家庭集会の交わりから始まると言うのが、日本人の救いのために長年労された結果得られたベック兄の結論であった。上掲の方はその一つの例であろう。くわしくは『神の愛』下巻284頁以下に書かれている。) 

2016年9月12日月曜日

将来のしるし

絵 吉岡賢一作 
 
神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。(2コリント1:10)

 「主は私の願いの声を聞かれた(詩篇28:6)。 主は私の祈りを受け入れられる(詩篇6:9)。

 「主が私を豊かにあしらわれた(詩篇13:6)」が先ず最初に来て、それから「あなたのしもべを豊かにあしらってください(詩篇119:17)」が、次に「あなたが私に良くしてくださる(詩篇142:7)」が来るのです。

 「主は私たちのために大いなることをなされ、私たちは喜んだ(詩篇126:3)。」は「楽しみ喜べ。主が大いなることをされたからだ(ヨエル2:21)。」という預言につながるものであります。同じ論証は祈りのうちに用いられています。

 「あなたがこの民をエジプトから今に至るまで赦してくださったように、どうかこの民の咎を・・・赦してください(民数記14:19)。」「あなたは、私のいのちを死から、まことに私の足を、つまずきから、救い出してくださいました(詩篇56:13)。」そのようにしてアクサの可愛い典型的な父への要望「私に祝いの品を下さい。あなたはネゲブの地に私を送るのですから、水の泉を私に下さい(ヨシュア15:19)。」がなされます。

 そのような信頼と懇願の表現の根拠はローマ8:32に見出すことができます。「ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、—主がすでになされた全く論争の余地のない事実があります—どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」—ここに主がこれからなさることについての霊感された結論があるのです。

私のすべての願いを 
私が求めるどんなものでも
あなたは与えてくださいます 

かつてこんなに迫真的で大胆で
不思議な話や夢が
あったでしょうか
このような無限の祝福が
満ち満ちて自由に流れ出すという

けれども
私が思っていたよりも
あなたに願い求めていたよりも
もっと多くのものを
あなたは私に 
さらにあなたの王としての大盤振る舞いの中から
与えてくださるのですね

 (今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/september-12-the-earnest-of-things-to-come/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97420です。

※Godhold Beck(21)
 今日の標題はThe Earnest of Things to Comeであった。何と訳すべきか迷ったが、「将来のしるし」と訳した。ところでベック兄の主著は『すぐに起こるはずのこと』全4巻であろう。黙示録冒頭に記されていることばであり、これに該当する英文はthings which must shortly come to passである。切迫した主の再臨を意味することばである。聖書全巻をとおして啓示されている事実であるが、まだ実現していないことである。

 ハヴァガルのローマ8:32のコメントにより過去時制と未来時制のちがいに改めて着目させられた。主の贖いと贖いの完成を見据えたハヴァガルの思いだったのだろうか。「救い」の頂点の「主の再臨」を果たしてハヴァガルも見ていたのだろうか。 ) 

2016年9月11日日曜日

誤解されたの?

40 Jahre Gebetsverbindung Zwischen Deutshland und Japan※

あなたこそは、私の思いを遠くから読み取られます。(詩篇139:2)
 
 誤解されることがどんなに苦しいことであるかわからない人がいるでしょうか。でも、恐らく誰もいまだかつて常に完全に理解されたことはないでしょう。なぜならごく少数のクリスチャンしか、すばやい理解の霊を持つ主のようではないからです。けれども、このことはあなたにとってほんの少しの試みとは言えないでしょう。あなたはパウロとともに「私にとっては、非常に小さなことです(1コリント4:3)。」と言うことができるとは思わないでしょう。

 しかし、すべての必要に合うこの貴重なみことばは、もしあなたがみことばにとどまり続けさえするなら、その勇敢な位置に到達できるのに全く十分な踏み石となることでしょう。「 あなたこそは私の思いを遠くから読み取られます(詩篇139:2)。」たとえ他の人々が、「日々誤解」しても、主はあなたの思いを読みとられます。そしてこのことははるかに良いことではないでしょうか。

 主ご自身、すなわち、あなたがとこしえに愛し、あなたとともにとこしえにいます父なる神様は全部わかっておられます。主は他の人々が理解しないことや、理解しない時もまさしく完全に知っておられます。あなたの行ないだけでなく、あなたの考えも、他の人々に全然ことばで明らかにすることができない中心にある自我も。「私の願いはすべてあなたの御前にあります(詩篇38:9)」主は他の人々があなたが悪事をなしたと思っている時も、どれほどあなたが正しいことをなそうとしていたことかがわかっておられます。

 主は心が貧しく弱い主の子どもが主を喜ばせたいのに、どれだけ主を悲しませ心の底で嘆いているかを知っておられます。「主が読みとられる」のは「主が知っておられる」という大いなる慰めよりも、さらに段階が進んでいるようにさえ見えます。「その英知は測りがたい(詩篇147:5)」からです。 

彼女はそのことを
ことばで言い表わすことは
できなかったことでしょう
しかし 師であるイエス様は 
わかっておられます
父なる神様が
秋の森の奥深いところで
さえずる鳥をわかって
おられるのと同じようにです

ですから 
赤くなった彼女の頬に 
そっと 触れられるだけで
全く 十分だったのです
尋ねられる必要もなく 
話す必要も全くないのです

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/september-11-misunderstood/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97419です。

※Godhold Beck(20)
 1994年10月、初めてドイツを訪問した。第一陣として200名ほどの方と一緒だった。様々な思いを持ちながら、また仕事などの段取りをつけながら、成田からミュンヘンへ飛び、ミュンヘンからミヘルスベルクまで長距離バスを乗り継ぎ、長時間の旅路の末、やっと宿舎にたどり着いたのは夜中だったように記憶する。ドイツの主にある友の暖かい歓迎を受けた時、その旅団はまさに興奮のるつぼの中にあった。

 その時、広げられたテーブルの美味しい食卓、美しく彩られた食卓を前にして、ベック兄が代表して祈られた。その文句のくわしいことばは忘れてしまったが、「私たちはあなた様をよりよく知ることができますように」という極めて短いものだった。もし私が指名されたのなら、恐らく旅路を乗り越えてここまで連れて来られたことへの感謝と故郷に錦を飾ることを喜んだ自作自演の祈りになってしまったのではないかと思う。

 何しろベック兄が自らの播いたみことばの種によって救われ喜んだ日本人を第二陣もふくめると400名余、自らの祖国ドイツに招き入れることができたと言ってもいいものだったからである。しかしベック兄の思いは全くそこになかった。そこまで導いてくださったのは主ご自身なのだ。決して自分の力ではない。日本にいた時と同じように、自分はイエス様をもっと知ることができますようにという祈りだったのだ。私は言い知れぬ感動とそこまでこの方はイエス様に嘉(よみ)されることをのみ待望されるお方なのかと思い、品性の違いに痛み入らせられた。

 そして何よりの証拠は22年後の今日(こんにち)2016年8月23日に日本の地からベック兄が慕ってやまなかった天の御国にゴールインされたからである。

 誤訳の多いと思う今日のハヴァガルの霊想も、またすべてを主にだけおゆだねできる幸せを歌ったものではないか。この点だけは伝え得ているのではないかと思うが、引き続き読者の皆様の賢明なご助言がいただきたい。) 

2016年9月10日土曜日

黙している天からの警告

絶えず祈れ(下巻)※
きょう、このしもべは、私があなたのご好意にあずかっていることがわかりました。王さま。王さまはこのしもべの願いを聞き入れてくださったからです。(2サムエル14:22)
 
 答えられた祈りは私たちをしてそれだけで喜ばせるものであります。けれども、その贈り物の背後には贈り物自体よりもさらに良いもの、さらによろこばせる恵みがあるのです。もっとも価値あるのは婚約指環でしょうか、それともしるしとなった愛でしょうか。

 正直な良心が識別するのに困難を覚えない、霊的でない祈りに対する公正な答えはさておき、王なる神のしもべは自らの願いに対する主の答えは主のめぐみとご好意にあずかっていることの証拠、しるしであるととらえます。それは主の真実な現在の個々人に及ぶ人格的な愛であるからであります。

 それらが少ししか受け入れられなかったり、少しも受け入れられないときは、何か隠されたあるいは認識されていない罪がないか、その原因を探らねばなりません。というのは「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない(詩篇66:18)。」からであります。

 そうですから、主が私たちに対して黙しておられる時には気楽な思いで、安易な思いで(祈りを)決して続けないようにしましょう。かつ、すばらしい答えをいただいている他の人をうらやむのでなく、「私たちの道を尋ね調べ(哀歌3:40)」ましょう。

御父は すばらしいお答えを 
仕える者の頭上に 注がれます
燦々と 輝く 冠のように。

立ち昇る私達の祈りの薄雲は 
黄金に輝く 水滴に変えられて
降り注ぎます。

その 一粒ひとつぶの 雫の 中に
私たちの か弱い祈りが 
またとない 高価な富に 変えられて
いるのを 見るのです。

私達は このようにして 
主の 御業(みわざ)を識(し)るのです。
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/september-10-the-warning-of-a-silent-heaven/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97418です。今日の詩の箇所は短いながらも正しく訳せていないと思う。これまたどなたかのお知恵を拝借したい。追記 早速、すばらしい訳を読者からいただいたので、今までの訳を全面的に上記のように変えさせていただきました〈9/11記す

※Godhold Beck(19)
 ベック兄は『実を結ぶいのち』を除いて、ご自身で著書なるものはあらわしておられない。日本に来られて何本のメッセージをなさったかわからない。一説には4000本は下らないという話もある。それはともかく、そのメッセージの聞き書きによる本は数冊出ている。それはいずれもベック兄が火曜の学びと題して行なわれる吉祥寺での集会のメッセージで語られたものを篤志者が何回も聴いてそれをもとに活字化されたものである。そんなことをしなくともベック兄の原稿をいただいてそのまま活字にしても良さそうなものだが、どうもそうはされなかったように思う。

 それはベック兄の謙遜さと自らを信用しない姿勢のあらわれであろうと私は睨んでいる。聖書以外の自分のことばは消えて欲しいと思っておられたからであろう。今日のハヴァガルの霊想にちなんでそのような本の内容がないかを調べてみたら、『絶えず祈れ』下巻に「こころにいだく不義」という題でまさしく上の文中の詩篇66:18に基づくメッセージがおよそ20頁ほどの分量で述べられていることがわかった。) 

2016年9月9日金曜日

後退は敗北を意味します

Godhold Beck by Toshihiro.H  2014.1.12※

わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ15:5) 
私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。(ピリピ4:13)

 ぶどう園の中に大変素敵で小さく静かな日陰の一角がありました。私たちはそこに腰を下ろし、やわらかいぶどう房の間で除草や水やりに勤しんでおりました。ところが、その時、主人がやって来て、私たちを重労働に引っ張りだし、私たちが決して出かけて行こうとは考えもしなかった野原の一角に置き、さらに一払いできるようにと、私たちの手にもっと大きい道具を持たされます。

 私たちは、このような働きをするためには(自分が)足りないことを知っています。その道具は私たちにとって重過ぎ、光線はまばゆ過ぎるし、ぶどうの木の丈は高過ぎるように見えるからです。ああ。しかし、私たちはほんとうに初めの生活に戻りたいですか。主は、もう私たちと一緒には、昔の日陰のある、あの一角にはおられないのです。なぜなら、主が私たちを前進させようとされるときは、主はすでに私たちよりも先に出て行かれたあとだからです。ですから、私たちが主と一緒にいることができるのは、すぐ主のあとを追って行くことによってだけなのです。たとえ私たちが依怙地になってこわがり、昔の働きへと走って戻ったとしても、主なしには、恐らく何もすることができないでしょう。

 主とともにあれば、私たちは、新しい働きを、「強くしてくださる」方によって(ピリピ4:13)、「どんなことでもできるのです」。私たちの力でなく、主の御臨在が私たちにやりとげさせてくださるのです。

私はあなたなしにはできません
どんな他の友も読み込むことはできません
聖霊のもっとも深い願い、必要とする解明を
どんな人間の心と言えども
私の心の薄暗い奥まった部屋に
入ることはできないでしょう

だから心を和らげなさい 
静かにしなさい 
落ち着かせなさい

ああ 祝福される主よ
私はあなたのものです!
(And soothe and hush and calm it. O blessed Lord, but Thine!)

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/september-9-retreat-means-defeat/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97417です。

※Godhold  Beck(18)
 今日一人の友から惜別の写真と題してベック兄の4枚の写真が送られてきた。そのうちの一枚である。精悍そのものに見えるベック兄の姿である。この時ベック兄は「どういう心構えで集うのか」と題して、マルコ1:21〜28から語っておられる。

 さて、今日は一週間前に主のみもとに召されていった方の葬儀があった。予想外の多くの方が出席され、嬉しいてんてこ舞いであった。その中でその方の2001年の富山喜びの集いでの出来事が奥様の言葉として披露された。内容は以下のものであった。

 ベックさんと夫が一対一でお話する機会がありました。そこで夫はベックさんに「『ベックさんのお陰で離婚せずに済みました。』とお礼を言った! 俺はお金を持って行った訳じゃないのに今まで、俺にあんなふうに接してくれた人はいない、おれも一瞬、信者になろうかと思った!」私が「なれば良かったのに」と言うと「俺はまだいい! やることがある! でも、何かあった時は行くところがわかった!」と言いました。

 その時は先週の木曜日でした。奥様を通して福音が伝えられ、その方は信者となったのです。翌日召されました。何かあった時とはその方にとっては15年後の2016年のご病気だったのです。ハヴァガルは主なしには何もできないと言ったが、この方は死を前にして主なしには一歩も前に進めなかったのだ。その仲介はすでに15年前のベック兄との交わりから始まっていた。その上、ベック兄が召されたのは8月23日、この方が召されたのは9月2日であった。)

2016年9月8日木曜日

王のしもべ

あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。(ヨシュア24:15) 
今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え・・・(申命記10:12) 
感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。(ヘブル12:28)

 今日、あなたが真に、徹底的に心からお仕えしようとする方を選びなさい 。そうすれば、主はあなたを受け入れてくださいます。そして、あなたもまた、これまでと同じように、主は大変すばらしい主人であり、そのすばらしさに満足し、もはや決して主人のもとから逃げ出して自由になりたくはないのだということに気づくことでしょう。

 いや、それどころか、むしろ主ご自身のことばを受け取り、「もし彼らが聞き入れて仕えるなら、彼らはその日々をしあわせのうちに全うし、その年々を楽しく過ごす(ヨブ36:11)。」と主がおっしゃることを悟りなさい。恐らくあなたがほんとうに主にお仕えするまでは、あなたはそのことを理解できないでしょう。というのは、主はあなたがその境地に達するまでは、主の報酬を与えられないし、示すことさえなさらないでしょうから。

 そして、主はおっしゃいます。「わたしのしもべたちは心の楽しみによって喜び歌う(イザヤ65:14)。」しかし、どんなものかを知るためにその歌を試すことはできないし、あなたの名目上か、あるいはまさに約束上の奉仕が、真に分かたれることのない献身(real and undivided consecration)に代えられるまでは、その歌の一小節でさえ読むことができないでしょう。しかし、主があなたを「私のしもべ」と呼ばれる時、あなたは心の楽しみによって喜び歌っている自分自身に気づくことでしょう。なぜなら、主がそうおっしゃっているからです。

「私の主よ」 
私の心は喜んでそう言ってきたつもりですが
それは私自身の冷たい不誠実な心でなかったでしょうか

私たちには一つの聖い思想を考えるための
意欲も力も全然ありません
それゆえに私たちのうちにある主の力を
測り知ることは慰めであります

聖霊によるのでなければ、だれも、
『イエスは主です。』と言うことはできません」
(1コリント12:3) 

その時
「あなたの夫」ということばの、愛らしさのすべては、
ずっと続く喜びのこだまのすべては、めざめさせられます 
それは、御霊のささやきであり 御霊の働きの印であるにちがいありません
たとえ それが どんなに ぼんやり見えようとも

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/september-8-royal-servants/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97416です。

※Godhold Beck(17)
 「賛美はキリスト者しかできない」と、かつてベック兄から聞いたような気がする。それは、今日のハヴァガルの霊想の一つのポイントであろう。

 ところで、ベック兄のテノールは大変綺麗で我家での初期の家庭集会の録音は様々なものが録音されているのだが、メッセージの前と後に皆さんでなさる賛美が同時に録音されている。それを聞くと、平日の昼間に開かれる集会ゆえにたくさんの女性の方の賛美が中心だが、一人男性の声がそれらの女声を縫うように流れて行く。それはとてもハーモニーに満ちていて、この世にいながら定めし天国を思わせる。

 その上、まだ人数も少なかった折りの集りにおいては、奏楽者がおられなかった時など、ご自身でオルガンを踏みながら賛美をリードされたと聞いたことがある。 )