2012年10月1日月曜日

鑑三の日記

今日の浅間山 御代田・追分間 車窓より
9月1日(土) 雨
正午少し前に強震を感じた。浅間山噴火の前兆にあらずやと思うて驚いた。しかるに少しもその様子なく、あるいは東京方面の激震にあらずやと思い心配した。夜半にいたり予想どおりなることを知らされて驚いた。東南の空遥かに火焔の揚がるを見た。東京に在る妻子家族の身の上を思い、心配に堪えなかった。夜中幾回となく祈った。そして祈った後に大いなる平安を感じ、黎明まで安眠した。

  2日(日) 晴
危険を冒しても東京に帰ることに決心した。羽仁元吉、石原兵永の二君とともに午前10時10分の汽車にて軽井沢を発し、午後4時荒川鉄橋近き川口町駅に下車した。それより病める足を引きづりながら夜10時柏木の家に達した。家屋に比較的軽少の損害ありし外に、家族、同居人、召使いの者の髪一本も害われざるを見て感謝の涙を禁じ得なかった。強震来襲の恐れ未だ絶えず、家族とともに露営した。離れて彼らの身の上を案ずるよりも、彼らとともに危険の地に在るの、いかばかり幸いなるかを覚えた。

  3日(月) 雨
震動やまず。食物わずかに三日分を残すのみ、その供給に苦心した。近隣相助けて相互の慰安と安全とを計った。放火のおそれありとて各家警衛の任にあたった。

  4日(火) 晴
震動昨夜来三四回感じたのみであった。比較的に静かなる日であった。大手町衛生会講堂の焼失を確かめて悲しかった。我が愛する大ピヤノと大オルガンとは同時に灰に化したのである。我が満四年間の霊的戦闘の行われしアリーナ(闘技場)であった。今は過去の歴史として残るのみである。鳴呼(ああ)我が懐かしき衛生会講堂よ。

  5日(水) 晴
呆然としている。恐ろしき話をたくさんに聞かせらる。東京は一日にして、日本国の首府たるの栄誉を奪われたのである。天使が剣を提げて裁判(さばき)を全市の上に行うたように感ずる。しかしこれは恵みの裁判(さばき)であると信ずる。東京は今より宗教道徳の中心となって全国を支配するであろう。東京が潰れたのではない。「芸術と恋愛と」の東京が潰れたのである。我らの説教をもってしては到底行うこと能わざる大改造を、神は地震と火とをもって行ない給うたのである。「その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます」とあるその日が来たのである(2ペテロ3・12、13)。玄関の入り口に次のごとく張り出した。

今は悲惨を語るべき時ではありません。希望を語るべき時であります。夜はすでに過ぎて光が臨んだのであります。皆様光に向かってお進みなさい。殺さんための打撃ではありません、救わんための名医の施した手術であります。感謝してこれを受けて、健康にお進みなさい。

我が民の罪悪を責むるの時は既に過ぎた。今より後はイザヤ書40章以下の預言者となり、彼らを慰め、彼らの蒙りし傷を癒さねばならない。「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」と。

(『聖書の研究』第279号1923年10月10日発行より引用。この当時、内村はかつての愛弟子有島武郎の情死を体験している。本文中の「芸術と恋愛と」の東京と彼が書いているのはそのことが背景になっている。震災の時、川口から上野までは列車また不通であったのだろう。徒歩で実に6時間かけて柏木に帰っていることが分かる)

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