2012年10月27日土曜日

『カラマーゾフの兄弟』雑感

ざくろジャム
小さな子どもにとって、三代にわたる親子関係は不思議に見えるらしい。先日も家内が小学校1年生になる女の子と買い物に行った時であったか、道中自分の父親を指して「アンタの息子でしょう」と言ったそうだ。その時の話題が父親をほめてのものだったか、それとも父親を批判してのものだったか、その内容は聞かずじまいだったが、家内はすかさず「アンタのパパでしょう」と言い返したので、孫はギャフンとなったようだ。
ざくろの木

しかしこのことは、親から自分が生まれたのは分かるが、その親がまた自分と同じようにその親から生まれた存在であることを思い、親を子として眺める相対化の視点を持とうとしていると言えなくもない。家族生活において相対化は中々訪れないが、社会生活における他者との関わりは絶えざる相対化の過程の繰り返しだ。

先頃、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を一週間ほどかかって読み終えた。読み終えたと言った代物ではない。余りにも、重層的な話の展開で一つ一つの会話の内容の字面を追って行くのが精一杯でどこまで理解できたかもちろん心もとない。でもそんなことはどうでも良くなって行く、手に汗を握る話の展開である。人間生活の家族内の葛藤、そしてそれにお金がつきまとうと言う根源的なことがテーマであるからである。しかも父親殺しが、すべての証拠から見てほとんど真犯人と思われている長男ドミートリ—は本当は犯人でないことが読み進めて行くうちに明らかになる。

けれども陪審員の判断はドミートリーの有罪に旗をあげる。その矛盾、結末も明らかにならぬまま、最後の短いエピローグで話は末息子のアリョーシャと年少の子どもたちが未来に希望を持ちながら、しかもそれはどこまで確かか分からないがとにかくよみがえりのいのちにあずかるという形で終わる。

今回、そもそもこの本を読んだのは年若い友人からその中の「大審問官」の話を聞いたことがきっかけであった。その話は大変興味をそそる話であった。次男イワンの創作話である。しかし私には全体の中からどうしてもそれを位置づけたかった。それで無理を承知で読み始めたわけである。読み進むにつれ、人間精神の複雑性と奥深さに終始心が揺さぶられた。自らの無知も自覚しないまま断定的にものを言い、人を傷つけている存在者である自分に気づかされたことは大いなる収穫であった。

ただ、果たしてドストエフスキーが主にある信仰を確かに獲得していたキリスト者であるかは、大方の方々の結論、すなわちドストエフスキーはキリスト者であるという結論は私にはにわかに断じがたいと思った。(下記に記す聖書の最初の言葉は『カラマーゾフの兄弟』の見返しに著者が引用しているみことばである。その後に記すのは私がドストエフスキーは確かにキリスト教的であるかもしれないが、キリスト者であるか疑問を抱くドストエフスキーのエピローグに対置したいみことばである)

今回、好評を呼んだ亀山さんのものを購入し読んだ。文庫本で、5巻本だがそれぞれにしおり、巻末解説があり十分堪能できる作品となっている。しかも亀山氏の解説によるとこの小説は未完でどう考えても第二部の小説が著者によって予定されていたが、それが著者の死によって駄目になったと言う。かつて小説というと夏目漱石どまりであったが70にも手の届く段階で、このような作家がロシアにいることを知ることは驚異的な思いがした。と同時にロシア社会における風土と民族性はやはり日本人とは全く別次元の社会であることを思わされた。(日朝関係、日中関係、日露関係、日米関係の調整に戸惑うのはある意味で当然のような気がする)

大学二年生の時だったか、田舎の本屋で当時手に入らなかったドストエフスキー全集が陳列棚の上に埃をかぶってしかも箱がこわれているがほとんど揃っていたのを買い占めたことを思い出す。しかし今手許に残ったのはわずか『作家の日記』上下二巻だけだ。過去、ひとかどのドストエフスキー通のつもりでいた。しかしいずれも人々のドストエフスキー論を紐解いただけで自ら一冊の本も完読していなかったのである。長年の責務を果たした思いである。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。(新約聖書 ヨハネ12・24)

私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。(黙示録21・2)

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