2012年10月13日土曜日

わたしは小羊です

2003年 in Germany by T.Katagiri
(イエスは言われた。)「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。」(新約聖書 ヨハネ10・27)

友人から、こんなかわいらしい話を聞きました。彼は小さな息子に、良き羊飼、主イエスのことを話しました。そして最後に、「お前もイエスさまの小羊になれるんだよ」と言ったそうです。

子供は黙って聞いていました。が、夜になってベッドに入ってから、坊やはこう祈ったそうです。「愛する主よ! ぼくをどうしても動物にするのでしたら、どうぞお馬にしてください!」

我々人間にはみな、そういうところがあります。少しでも抜きん出た存在でありたいと願うのです。神の国の、悲惨な十字架、それはあまり人気がありません。あの子供にとっても、「小羊」ははかばかしく思えず、さっそうたる駿馬が望ましかったのです。

さて、我らの主が、我らを羊にたとえられたのには、それなりの理由があったからです。彼はただにご自分の民ばかりか、すべての人を「羊」とお呼びになります。ただ主は、迷い、失われた羊と、救われて主の群れのものとなった羊とを区別なさるだけです。

なぜ主は我々を「羊」とお呼びになるのでしょう。たぶん、我々が全く方向感覚を持たないからでしょう。この世に関することなら、曲がりなりにも進んで行けるのですが、我々の生涯の、永遠の目的ということになると、まるで途方に暮れてしまいます。だから、羊飼が必要なのです。とすれば、イエスが我らの羊飼となられたことは、なんと幸いなことでしょう。子供のようになって、「わたしはイエスの小羊。/この良き羊飼を/絶えず、絶えず、喜びます・・・・」と賛美しない限り、どんなに力を尽しても、本当の人生を歩んで行くことはできません。

この生けるお方、イエスは、今もこの世の道を歩みつつ、羊飼の声を放たれます。多くの人にとって、その御声は、彼ら自身、あるいは、人々の声によってかき消されてしまいます。しかし—「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。」

主よ! 我らを投げ出してしまわれないので、感謝します。
                       アーメン

(『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著岸本綋訳 10月13日から引用)

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