2013年9月28日土曜日

真夜中すぎ(2) ポーロ・B・スミス

婚宴の席 2013.8.3
娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。ところが愚かな娘たちは、 賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。(マタイ25・7〜13)

さて、この問題に関する二番目の質問に入りましょう。神の夜中の時刻が打ったあとまで残っている人々の上に、どのようなことが起こるでしょうか。もしあなたが賢い娘と愚かな娘の物語を注意して読むなら、あなたはこの質問に対する解答を、聖書の中に見出されるでしょう。愚かな五人の娘たちは、夜中すぎに婚宴のへやに入ろうとしましたが、聖書は「戸がしめられた」と書いています。そして、戸が再びあけられたと信じて良い理由は、どこにもありません。

私は少年時代トロントにいましたが、私たちの家庭では、特別の許可があって外出した場合、必ずその日のうちに帰ってこなければならないという規則がありました。夜中になる前に帰宅すれば、ドアはあいています。しかし夜中がすぎると、ドアはしめられ、かぎがかけられるのです。夜中前であれば、ドアをあけて家の中へ入りさえすれば良いのです。この場合、なんら説明をする必要はありません。しかし夜中すぎに帰ると、ドアをノックするか、それともベルを鳴らして、誰かを起こさなければなりません。それから、遅くなった理由を話さなければなりません。私の少年時代、記憶に残っていることは、どんなに遅く帰って来ても、結局誰かを起こすことができ、したがってドアがあけられたということです。しかし聖書を読む時に、神の夜中の場合はそうでないことがわかります。聖書は、誰かの人生において神の時計が夜中を打った場合、機会の扉はしめられ、しかも永遠に開かれないと明らかに告げているのです。

愚かな五人の娘たちは、招待されていなかったから閉め出されたのではありません。彼らは、賢い五人の娘同様、招かれていました。彼らは婚宴について一部始終を知っていました。しかし聖書は、彼らが招かれていたにもかかわらず閉め出されたと、言明しているのです。

愚かな五人の娘は、中に入った者と同じ招きを受けていただけでなく、中に入った者と同じ望みを持っていました。この世界で最大の驚きを経験した人々は、夜中がすぎて閉め出された、愚かなこれらの娘でありました。彼らは婚宴の席につらなることを期待していました。またそこに行くつもりでした。彼らは首を長くして、婚宴を待ち望んでいたのです。しかも彼らは、中に入るつもりであったのが、閉め出されてしまったのです。

理由はただ一つ、来るのが遅すぎたからです。彼らは婚宴のために時間をかけて必要な準備をしなかったので、夜中の時刻が打った時に、準備されていない自分たちを見出したのです。彼らはあとになってやって来ました。しかし、すでにあとの祭りでした。

幾度も幾度も、主イエス・キリストを救い主として受け入れるようにとの招きを受けた多くの人々が、いつの日か、一度も招きを受けたことのない異教の人々と一緒に、天から閉め出されることは、なんという悲劇でしょうか。いつかは神との正しい関係に入ろうと思って生活している多くの人々が、救いについて振り向きもしなかった大多数の人々と共に、天国から閉め出されるとは、まさに肌に粟を生じる思いではありませんか。

もしかりに、永遠にわたって、あなたが神の御臨在より別たれる日が来るとすれば、それはあなたが招きを受けなかったからではなく、またあなたがいつか救われようと思わなかったからでもないということを、思い出してください。そのような日が来るのは、あなたが夜中すぎまで外に戦っていた(※)からです。

(『真夜中すぎ』6〜8頁より引用※引用者註:少し、わかりにくい表現です。多分、この戦いとは主イエス・キリストを受け入れるか受け入れないかの心の戦いのためにいつまでも逡巡していて、折角の花婿の招待による婚宴の宴に結局間に合わず、外に残されてしまったことを指しているのではないかと思います。)

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