2013年9月22日日曜日

ある町のたたずまい

一月以上前のこの町の一角の風景 13.8.8
10人乗りのミニバスがある。立ち乗りは認めない。きっちり10人の市内循環バスである。駅前から病院までは徒歩で30分強、しかもこの地にある特徴的な崖線を上り下りしなければならない。自然とバスに頼らざるを得ない。もっとも地元の人はその崖線を自転車を押して上り下りされる。病院への行き帰りを繰り返す中でにわか市民となった私は少しでも経費節約といつの間にかこのミニバスの愛好家となった。何しろ全区間ワンコインの100円だからである。

当初、停留所で待っていると乗客は満席、これでは折角の待ち時間も水の泡になってしまうのでないかと内心ヒヤヒヤするのだが、中にいる乗客の方が降りられて無事座席に座れたときはホッとしたものだ。もう何回乗っただろうか、数え切れない。運転手さんの顔も名前までも覚えてしまったほどだ。あるときなど、駅での乗客はわずか二名、ずっとそうだった。市内循環に10数分しか要しないバスだが、わずか二百円でこのバスが運行するとなると果たして採算は?と要らぬ心配までしてしまう。

ところが段々乗ってみるといろんなことがわかってきた。10人が座れるように、乗客自身が気を使っているということだ。自分の停留所が二三ヵ所向こうであっても、待っている方がいると、その停留所で皆さん降りられてあとは歩かれると言う助け合い・譲り合いの精神が満ちているのだ。車内はそれだけでも明るくなる。しかも運転手さん自身が停留所を越えて乗客の方が坂を上りやすいように、多分その乗客の自宅の近くと思わしきところで降ろされるのである。

いわゆる路線バスも走っている。しかもミニバスは市内循環からはずれている病院までは行かず、途中からさらに歩かねばならないのに対して、こちらは病院前まで連れて行ってくれる。便利この上ない。このほうは210円でワンマンバスにみなそれぞれ仏頂面して決められた運賃を精算して降りるだけだ。あとは野となれ山となれとばかりバスのことはすっかり忘れてしまう。もちろんこれも忙しい現代社会の一つの公共交通機関の利用の仕方であろう。しかしミニバスは万事に小回りが効く。およそこんなところにバスが入れるかと言う路地を走っていき、街の隅々の生活を見せてくれる。自治体がこのようなバスを市民のために提供しているのだ。病院へ通うためだけのにわか市民にすぎない私のような者にとっても、この町を好きにさせてしまう。

崖線のわき水が「野川」となっていると言うこの町を、いつもその川沿いに多くの人が散歩やランニングで行き来される。この町に住んでみればこんな日常生活も送れるのだとちょっとばかりうらやましくなる。市の税金はどうなのだろう。図書館の本揃えはどうなんだろう。「政治音痴」の私でもそんなことを考えながら病院に日参している。

最後に、私の好きな聖書の箇所の一つ、ベツレヘム近郊で農作業を営む人々の会話を記しておく。恐らくミレーもまたこのことを知ってあのすばらしい画をものにしたのでないだろうか。

ちょうどその時、ボアズはベツレヘムからやって来て、刈る者たちに言った。「主があなたがたとともにおられますように。」彼らは、「主があなたを祝福されますように。」と答えた。ボアズは刈る者たちの世話をしている若者に言った。「これはだれの娘か。」 刈る者たちの世話をしている若者は答えて言った。「あれは、ナオミといっしょにモアブの野から帰って来たモアブの娘です。彼女は、『どうぞ、刈る人たちのあとについて、束の間で、落ち穂を拾い集めさせてください。』と言い、ここに来て、朝から今まで家で休みもせず、ずっと立ち働いています。」(旧約聖書 ルツ記2・4〜7)

0 件のコメント:

コメントを投稿