2013年9月29日日曜日

真夜中すぎ(3) ポーロ・B・スミス

キリストの昇天(使徒1・9) 絵:ギュスターヴ・ドレ
(著者はマタイ25・1〜13を通して文中の「夜中」を問題にし考えてきました。一つはその意味を問うことでした。二つ目は夜中に花婿であるイエス様に会えなかった人々がどうなるかでした。そして、今日からは最後の問題を考えようとしている箇所です。)

この問題に対する質問は、最も大切なものであります。それは、われわれの生涯において、夜中の時刻を打つものは何であろうか、ということです。

もしわれわれが、キリストの再臨の時まで生きているとすれば、われわれの生涯において夜中の時刻を打つものは、この再臨であります。イエス・キリストが再び帰ってこられる時に、われわれ人類のうち、どの世代が生きているでしょう。これは次の世代であるかもしれません。あるいは、この世代であるかもしれません。この出来事を見逃しにしようとすることはできません。なぜなら、聖書は絶対に誤りのない言葉をもって、いつの日か主イエスが、この古い世界のもやを破り、御自分の教会をみもとに携えるため再びこられると宣言しているからです。

神の言葉である聖書は、この思想で満ち満ちています。三十の節があれば、一つの節はそのことに関連性を持っています。第一降臨が一度記されると、第二降臨は八度の割で記されています。主イエス・キリストの再臨を説明するのに、ぜんぶの章、もしくはぜんぶの書が用いられている場合があります。それは旧約聖書の中に予告されており、新約聖書の中に、くりかえしくりかえし強調されています。

あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。(ヨハネ14・2、3)

主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。(1テサロニケ4・16、17)

「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒1・11)

その日は近づいています。たぶん、ずいぶん近い所まで来ているかもわかりません。その日が来たら、それは、その時まで生きている人にとって夜中となるでしょう。そうすれば、神との正しい関係に入る機会は去ってしまい、永遠に帰ってこないのです。イエス・キリストを救い主として受け入れた人々は、彼と一緒になるため取り去られます。一方、継続的にイエス・キリストを斥けて来た人々、すなわち、夜中がすぎるまで、安全を意味する箱舟の外にいる人々は、取り残されてしまいます。それから神の裁きがこの地上に降されるのですが、その時、あとに取り残された人々は、山やほら穴へ逃げて行き、小羊の怒りからかくまわれるため、岩が彼らの上に落ちて来るようにと、絶望の中から叫び声をあげるのです。

イエスは今日にでも帰ることがおできになります。もしそのようになったら、今日全世界に夜中の時刻が打ち鳴らされることになります。そうすれば、あなたが神との正しい関係に入る機会は、なくなってしまうのです。

『真夜中すぎ』9〜11頁より引用。引用者註:「再臨」は聖書信仰の根幹です。しかしその日がいつかわかりません。だから古来不信仰な人々は未だ主イエスが来られないことを指して、その約束はどうなったか、実現していないではないかとあざ笑います。しかしそれは主の忍耐のあらわれであると聖書ははっきり語っています。2ペテロ3・3〜15参照のこと。

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