2013年10月10日木曜日

目標を目ざして一心に走る(結)

エジンバラ市内の彫像 2010.10.3
私たちはピリピの兄弟姉妹たちのように、主の目に喜ばれる人々となっているなのでしょうか。2章ですね。ピリピ書2章25節から、2、3節お読み致しましょう。

しかし、私の兄弟、同労者、戦友、またあなたがたの使者として私の窮乏のときに仕えてくれた人エパフロデトは、あなたがたのところに送らねばならないと思っています。彼は、あなたがたすべてを慕い求めており、また、自分の病気のことがあなたがたに伝わったことを気にしているからです。ほんとうに、彼は死ぬほどの病気にかかりましたが、神は彼をあわれんでくださいました。彼ばかりでなく私をもあわれんで、私にとって悲しみに悲しみが重なることのないようにしてくださいました。そこで、私は大急ぎで彼を送ります。あなたがたが彼に再び会って喜び、私も心配が少なくなるためです。ですから、喜びにあふれて、主にあって、彼を迎えてください。また、彼のような人々には尊敬を払いなさい。なぜなら、彼は、キリストの仕事のために、いのちの危険を冒して死ぬばかりになったからです。彼は私に対して、あなたがたが私に仕えることのできなかった分を果たそうとしたのです。

パウロはピリピの教会に属するエパフロデトについてこういうふうに書いたのです。このエパフロデトに対し「私の同労者」「私の戦友」「私の兄弟」と呼びかけています。このエパフロデトとはパウロと同じく永遠に朽ちない一つの目標を目ざして走る競技者でした。この一つの目標を心の眼で見た者は自分自身を顧みません。「自我」という足かせから解放されています。このピリピ書2章21節と30節は実に著しい対照を示しています。。

21節は、はかない人の名声を求めて走る者の姿が書かれています。

だれもみな(自分、自分)自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。

30節には朽ちることのない、天の報いを求めて走る人の姿が書かれていますね。

彼は、キリストの仕事のために、いのちの危険を冒して死ぬばかりになったからです。

とあります。パウロ自身次のように言えました。使徒行伝の20章の24節ですね。よく引用されるすばらしい告白でもあり証です。248頁です。

けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。

エパフロデトもパウロもただ一つの天の賞与を求めて走り続けました。

ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

パウロは有能な主に仕えるしもべでした。もちろん、当時認められた主のしもべだったのです。彼は名声も得たし、残る天の栄誉を目ざして走ることは簡単なことだったと言う人もいるかもしれない。けど、エパフロデトを考えてみたい。彼は名もない、誰の目にも目立たない当たり前の一人の信者にすぎなかったのです。しかし、主なる神の眼からは、パウロもエパフロデトも同じく主に仕える者として見えたのです。問題は私たちが何と何をやったかということではない。私たちがどれほど主に忠実で従順であったかだけということだけではないでしょうか。コロサイ書の中で、3章23節。

何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。

そうしないと、疲れてしまい、落ち込むようになり、喜びもないし、力もない、ということです。パウロの目ざした目的は何であったか、と言いますと、それはイエス様を知る知識の絶大な価値でした。有名なピリピ書3章8節に

私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

パウロはこのためにすべてのものを捨て去りました。パウロがここで言っている「キリスト・イエスを知っていることのすばらしさ」は、イエス様について知る知識とは全く違います。より以上にすぐれたものです。キリストについての知識は、集会に来たり、聖書研究会に出たり、本を読んだりすることにより貯えることができます。パウロはイエス様について知りたいとは言っていません。さらにまさるものを求めていました。すなわち、「私はキリストを得たい」と彼は叫んだのです。これは何を意味しているなのでしょうか。パウロはよみがえりの主のいのちを自分のものとしたかったのです。それでは、このよみがえりの力はどうしたら自分のものにすることができるなのでしょうか。それはイエス様の苦難にあずかってその主の様に等しくなることによってのみ自分のものとすることができます。私たちは、すべてを主にささげた献身者として、自分が持っている考え、意志、感情をすべて主にささげ、また自分の当然持って良いと思われる権利も主にささげたいものです。

御座で主なる神の賞与を得る者は、聖書の知識が豊かな者ではありません。また熱心に奉仕した者でもないでしょう。キリストの霊を豊かに内に宿している者は、イエス様の賞与を豊かに受けるのです。パウロは、ほんとうに刑務所の中で

兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

(と、書いたのです。)

パウロは誰が何と言おうとこのただ一つの目標を目ざして走り抜こうと決心していました。パウロは何としてもこの賞与を得たいと願いましたから、他の人の意見には眼もくれず走っていました。

ヘブル書の著者は次のように書いたのです。有名な12章の2節。

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

パウロには敵も多かったでしょう。パウロを批評し、小さいことを大げさに話し、あなたがそのようなことをすれば信者は割れる、離れる者もいるかもしれない、あなたは霊的な高ぶりを持っているのではないか、他の信者に命令する者となりたいと思っているの(か)、もっと簡単な福音だけを伝えたらいいだろう、そのような霊的な真理を語るとかえって信者の頭はごちゃごちゃになる、などと言う人々も必ずいました。

このようにパウロは誤解されましたが、これはパウロの十字架の道でした。パウロは別に人とちがった信者になりたいとは思っていませんでした。パウロがただひとつ願っていたのは、すべての主にある兄弟姉妹が主の目的を見、光栄に満ちたこの主の賞与を目ざしてひたすらに走ることだっただけです。パウロはイエス様とともにすべての聖徒が一所(ひとところ)にとどまらず、御座にまで行き着くことができるようにとの重い重荷を担ったのです。普通の競争は何とかして自分だけが早く走り、他の人は遅くなるように心がけます。けど、御座に向かって走る兄弟姉妹の競争は全くこれと反対です。己をむなしくし、他の人々を顧み、助け、仕えて行く時に、(そうして)行く者が一番早く御座に達することができるのです。

パウロはなぜ細かいことまで聖書に書き残して注意しているのでしょうか。主にあるすべての者が御子イエス様の御姿に変えられ、イエス様の御座に達する者となることができるようにパウロは細心に注意を払っていたのです。

私たちも同じ心構えを持つようになればありがたいと思います。

(かくして、このメッセージは終わる。今まで、ここまでみことばの深い意味、愛を明らかにしたメッセージは見聞きしたことがない。しかし、主イエス様が十字架上ですべての人の身代わりとして死なれたことからすると、このメッセージの結論は当然と言える。私をふくめ、己を肥やすことに懸命であることに無自覚であるキリスト者にとって必読のメッセージだと思う。)

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