2013年10月27日日曜日

「宗教」と「啓示」(2)

浅間山             2013.10.11
また、インドでは、他の東アジアの国々(註1)と同様に偶像礼拝すなわち誤った祖先礼拝も広くおこなわれています。聖書は死者を礼拝したり、香をたいたりすることを固く禁じております。(死者を礼拝してはならない=出エジプト20・2〜6、申命11・16、17、26、27、28。死者に香をたいてはならない=出エジプト30・34〜38、レビ10・1、2)それらは、死者を葬っているのではなく、悪霊を礼拝しているのだと、聖書は警告しています(1コリント10・19〜22)。死者の霊は神のもとに帰っているのであり、私たち生きている者が死者の運命を左右することなどできません(伝道者の書12・7「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。」)。それをあえてしようとすることは、神に対する冒瀆にほかなりません。人々はこうして、真の神から隔たった存在になってしまうのです。数々の、いわゆる宗教の特徴はそれを信じる人々をまことの救いから遠ざけ、さらには、人々が自分で気付かぬうちに、悪霊の支配下に置いてしまうところにあります。

ところが、現代の私たちの周辺には、宗教と名の付かない宗教がはびこっています。それは、仕事であり、趣味であり、慣習であります。仕事に関して言えば、聖書は怠惰を禁じています。「働かざる者は食うべからず」と最初に語ったのは、聖書です(2テサロニケ3・10)。しかし、仕事や会社が人生のすべてになり、それによって支配されてしまうなら、これは神の喜ぶことではありません。よき趣味を持つことは、すばらしいことです。しかし、趣味や遊びによって、自分が支配されるというなら、これも不幸なことです。また、自分の判断を持たずに、ただ、多くの人がするから自分も行ない、それで正しいと考えている人も不幸です。これらの人々は、私たちの身辺にも意外と多いものです。これらの人々の特徴は、人を恐れて神を恐れないということであり、その原因はまことの神を知らないところにあります。人々の顔色をうかがうことに一生懸命になっている人は、生けるまことの神との結びつきを持っていません。

主イエスは次のように言われました。

わたしは人からの栄誉は受けません。互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。(ヨハネ5・41、44)

私たちは、あわれな「人間の奴隷」となるか、または、何物にも束縛されない「神の僕(しもべ)」となるかのどちらかの道を選び取る必要があるのです。

私の書斎にはかなり部厚い聖書大辞典がありますが、ある時思い立って「宗教」という項目を探してみました。この本には、聖書に出てくるすべての項目が網羅されていますが、「宗教」という項目はついに見出すことはできませんでした(註2)。つまり聖書は「宗教」と全然関係がないということがいえるのです。それでは、聖書はまことの神について、また、上からの「啓示」について何をいったい私たちに教えてくれるのでしょうか。このテーマで次に考えてみることにします。

(『実を結ぶいのち』ゴットホルド・ベック編著138〜140頁から引用。
註1 インドが東アジアの一員と考えられていることに抵抗を感ずる方もおられるであろう。これは編者がドイツ人であり、ドイツから見たインドの地勢観によるものと思われる。アジアに位置する私たち日本人から見るなら、インドは南アジアであるが、アジアを風土・文化を加味して大分類するなら西アジア〈乾燥アジア〉と東アジア〈モンスーンアジア〉の二大分類ができなくもない。そうするとインドも日本もやはり東アジアとして共通項にひっくるめることができる。
註2 私の手もとにある文語訳聖書語句事典1955年聖書図書刊行会版には「宗教」という一行項目があるのみだが、それにはsectと言う英語表記が併記してあり、使徒26・5、使徒28・22があがっている。むしろ「信心」という一行項目にreligionと英語表記の併記があり、新改訳聖書では同じみのヤコブ1・26〜27があげられている。だからこれも編者がここで言われていることと大差はないと言える。

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