2013年10月8日火曜日

目標を目ざして一心に走る(承)

結婚を祝福する花々 2013.10.5
多くのキリスト者はただ自分の祝福を求めて祈り、信仰生活を続けますが、他人の祝福を願わず、自分の祝福だけを求める人は、あたかも登山靴とリュックサッ クを背負って走る競技者のような者ではないでしょうか。このような人々はしばらく走ると疲れてしまい動かなくなってしまいます。

パウロは、当時イエス様のことを宣べ伝えた人々について、悲しいことを書いたのです。ピリピ人への手紙2章21節

だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません

3章18節では、パウロはこのような人々はキリストの十字架に敵対して歩いている人々だと言っています。彼らはイエス様ご自身に敵対してはいません。イエス様を知り、イエス様を信じ、罪の赦しをいただいた人々です。それでもなお、(彼らは)十字架に逆らっている、とパウロは書いたのです。それらの人々は誤解されたくない、あなどられたくない、イエス様のために恥を負いたくない人々です。これらの人々は、人の思いでイエス様に十字架にかからないように諌めたペテロに似ているのじゃないでしょうか。イエス様はあの時、ペテロに言いました。「さがれサタン、あなたはわたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と激しく言われました。

イエス様の十字架の敵はこのピリピの3章18節〜19節によると、地上のことを思っている人々のことを言います。私たちは十字架に敵対しているなのでしょうか。それとも、私たちは神の国とその義とをまず第一に求めているなのでしょうか。

パウロはからだを伸ばして走るようになりました。どうしてでしょうか。言うまでもなく、救われるためではない、地上における名声のためでもない、また自分の持ち物を得ようと思ったからではない。パウロはからだを伸ばして走ったのは、奉仕の結果のためでもなかったのです。パウロは驚くほどイエス様に祝福され、すばらしいご奉仕をしました。しかし、ご奉仕の結果がパウロの目的ではなかったのです。

パウロは今ローマの牢獄でピリピにいる兄弟姉妹に手紙を書き送っています。パウロはそのご奉仕の大部分をもうすでにその時終わっておりました。しかもなお、ただこの一事に励んでいます。すなわち「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進む。目標目ざして一心に走っている」と彼は言っています。多くの人々はパウロの奉仕によって救われ、また彼の力に満ちた奉仕によって、人々がたくさん救われていました。けれどもパウロは奉仕の結果を目標にはしていませんでした。

私たちも奉仕の結果を最後の目的にするならば間違っています。誤りです。ある人は奉仕と言って、奉仕に熱中しています。けれども、もし病に倒れて何年間寝たきりにならなければならないとするなら、いったいどうでしょう。必ず絶望してしまいます。もし他の人々は奉仕できる環境にあるのに、自分はできない、他の人々だけ豊かに祝福されて自分は祝福されない、そのような時はいったいどうでしょうか。もちろんイエス様は私たちが真実を尽くして奉仕することを願っておられますけれど、奉仕そのものがまことの妨げとなるならばほんとうに悲しいことなのではないでしょうか。 使徒行伝の20章24節パウロは次のように証しました。エペソの長老たちの前の証です。

けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。

それでは、ここまでパウロが求めていた報いは何でないかを見て来ましたが、最後にパウロが求めていた報いとはいったい何だったなのでしょうか、について考えてみたいと思います。まずパウロが求めていたのはただ主の誉れです。まことの報いを求めてひたすら走る者は信者や他の人々の栄誉を求めないで、ただ主ご自身の誉れを求めて走ります。ダマスコの途上、よみがえりの主イエス様がパウロをとらえられた時、主は一つの目的をもってパウロを回心させ、主のしもべとしてご奉仕をするために救ってくださったのだと思ったにちがいない。

今パウロは何年もの間ご奉仕を続けた後、囚われの身となってローマの人屋(獄)につながれています。ピリピの兄弟姉妹に手紙を書き送っています。目に見える伝道のご奉仕は大体終わったというのに、彼はなお目標を目ざして走っていると書き送っているのはどういうことでしょうかね。御霊は絶えずパウロを前の方に追いやってこのように言わざるを得なかったのです。

主ご自身はパウロよりもっと大きな関心をもってこのまことの目標を達成しようと願っておられました。だからパウロをして目標目ざして励ましめたのであります。問題は、私たちが満足することではなく、主が満足されることです。また、主は私たちが主の示す目的だけに向かって邁進するのを願っておられま す。その時はじめて主は満足なさいます。

パウロの著しい特徴は、ただ主を喜ばせるためにすべてのことをした、と言うことです。回心の時に、もうすでに、彼は「主よ、私はこれから何をしたらいいなのでしょうか」と主の御声に耳を傾けて、それに聞き従いました。パウロは生涯、主の指図どおりに動いていたということです。パウロの生涯、主の指図どおりに動いていたということとはほんとうに恵みそのものです。ですから、主はパウロに御自分の目的を上から教えられました。だからパウロは、まことの目的を知っていたから、ただひたすらにからだを前に伸ばし、それを目ざして前進しました。けれど、この主のご目的とはいったい何だったでしょう。

(続きは明日です。最後に述べられるこの主のご目的こそ、振り返って見ると同じ日曜日に全く別の地で礼拝を持っていた私たちに別のメッセンジャーが示された眼目でもあったような不思議な思いにさせられるのです。キリスト者には時空を超えて同じ血が流れているとしか言いようがありません。)

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