2019年8月2日金曜日

A牧師の聖書

左手に ブルーベリーを 摘み取りて 笑顔こぼれり 貧者の庭

家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください。』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない。』と答えるでしょう。(ルカ13:25)

A牧師のご講義をお聞きしたのは、かれこれ30年以上前で、教会に出席していたころである。それがどのようなテーマであったかも正確には覚えていないが、多分「信教の自由と日本の教会」の講義題名であったのではないだろうか。

 その後、教会を出て、集会に集うようになって、教会時代の反動というか、学ぶことを極度に軽視した信仰生活を送り続け、教会時代にせっせと読み漁った、あるいは読み漁ろうとした本などをほとんど処分してしまった。聖書一冊あれば事足れりという思いであった。

 その後10数年して定年時期がやって来て、再び所蔵本の大量処分を断行した。今考えるとずいぶん貴重な本をたくさん手放してしまった。どっちみち、これらの本は図書館で備え付けるだろうからという見通しがあった。ところが豈図らんや、現在の図書館は古い書物は置こうとしないようだ。あるいは置こうとしても、私とは関心が違うので、ずいぶん当てが外れて、私の所持していた稀観書は残念ながら置いていない。

 それもあって、その後、二、三年経ってからつでを頼って再び古書を買いあさるようになった。そのような折り、冒頭のA牧師の署名入りの聖書を手にした。新改訳の第一版であるが、A牧師の性格そのままをあらわす丁寧な扱い、さては行間にはギリシア語、はてはヘブライ語まで小さな赤字で記入されている代物である。

 当時から興味を持って書棚の一角に並べておいた。ところが現金なもので、その後、親しくしていただいている知人からA牧師にまつわる芳しくない評判を聞いた。それだけがきっかけとなったわけではないが、久しくその聖書はいつの間にか、私の書棚の隅っこに置かれ、押し込まれた形になってしまった。

 ところが歴史はめぐるというか、最近このA牧師の存在が気になり、著書を二冊ほど読んだ(いずれも聖書と一緒に買い求めていたもので)。そして昔知人から聞いた話も誤解ではないかと思い始めるようになった。その挙句、久しぶりにA牧師の聖書を紐解いた。裏表紙には横書きで次のように書いてあった。

キリスト教式結婚式の要件('82.2.1)
1、Mt 19:6 〈神があわせたもうたもの〉がめいかくであること
  牧師はその神の代理者
2、神はどのような人を合わせたもうか
  Ⅱコリント6:14 信仰という基本的なもので一致していること
 以上によらない司式は、牧師の越権行為となる。
 (キリスト教式結婚式自体が成立しない)

 そして右隅には「地獄」という標題のもと以下の聖句箇所が明示してあった。

Rev 20:10(Mt 25:41) Mt 8:12 13:42,50 22:13 24:51 25:30 Lk 13:25 Mk 9:48

(引用者注:Revは黙示録、Mtはマタイの福音書、Lkはルカの福音書、Mkはマルコの福音書)

 私にはA牧師の思いが痛いほど伝わって来た。そこには毅然とした彼の結婚観と死生観、ひいては主を恐れてやまないその信仰が示されていたからである。

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