2019年8月8日木曜日

信仰とは生まれたての嬰児のようなもの

センスある暑中見舞い状
肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。(ヨハネ3:6〜7)

 罪の非行についての深い悲しみを、ほんとうに知っている人は、古い生活を身につけたまま、神の国にもぐり込もうとはしません。罪に対する正しい悲しみは恵みを正しく自分のものにする、確かな保証であります。心の内のこの同じ悲しみが、魂からすべての悪だくみを追い出します。もし、悲しみがはいってくれば、悪だくみは出て行かねばなりません。

 福音は学びとられるものではありません。魂がそのみじめさに苦悶し、途方に暮れてしまうとき、すべての暗記していた教訓が、ただの文字と言語になります。今まで読んでいた聖書の章句も、ただ音のみの空虚なことばとなります。しかし、聖霊が光を照らし始め、魂がその光に従順に従うとき、その時になって、初めて、今まで見たことのないものを、不思議にも感じ始めるのです。彼が子供の頃からもっていた知識が、生々と、力強く彼に語りかけます。彼の耳にひびく聖書の章句は、福音の光栄のおとずれとなります。すべてがキリスト中心になります。聖霊は、おおいをとり除き、彼にキリストを示します。

 かなしみの涙で、充血したまなこに、よろこびの涙が輝き、深刻な苦悶が解放されて、歓喜となり、心の「わざわい」が、天の「祝福」に代わり、罪の宣告は、放免されて無効となり、シナイ山がゴルゴタの丘に席を譲らなければならない。このような場合、だれがこのことが、あわれな罪びとに意味を持つかを、十分に描写しうるでありましょうか。この世では、この福音にくらぶべきものは何もありません。何ものも、すべてが、人間的なものと相反するものは他にありません。何ものも、かくも不合理で、理解しえないものは他にありません。何ものも、このように全く神聖にして、光栄あるものは他にありません。

 何ものも、天において、神のひとり子より、価値あるものは他にありません。何ものも、聖金曜日より、この世を恐ろしき恐怖でみたしたものは他にありません。何ものも、その君が致命的打撃をうけたことより、ひどく地獄を震い動かしたものは他にありません。しかしまた、何ものもこのような喜びで、天をみたしたものは他にありません。福音の力が、ひとりの罪びとをかち得るたびごとに、天使の立琴は、讃美の歌をかなでたのであります。

「義についてと言ったのは、わたしが父のみもとに行くからである」。

 義の基礎となるものは、キリストが救いを完成して後、そして罪と、死と、悪魔に完全に勝利を得られて後、彼の父のもとに行かれるということであります。今や彼は、父のみ前にあって、わたしたちの罪のための、彼の犠牲を、有効なものとなしておられるのです。聖霊が罪びとに示すものは、このキリストにある完全な救いであります。罪びとは、これが、自分のためになされていることを知るのであります。「わたしのために、彼の愛の心は裂けた。これは全く、わたしのためであることを思え」。

 しかし信仰とは何でしょうか。信仰は、わたしの救いに必要であります。しかし信仰は、どこから来るのでしょうか。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない」(ヘブル11:6)。ここでもまた、救いが徹頭徹尾、神のわざであることを知るのであります。魂がこれを明瞭に理解しなかったときに、聖霊は信仰を賜物として与えられたのです。「人生における最大の芸術は、キリストを信ずることである。その芸術は、ただ聖霊の学校でのみ学ばれる」(スクリーヴァー)。

 フィリップ・メランヒトン※は、そのアウグスブルク信仰告白弁証論の中で「義とする信仰は、単に歴史的知識ではなく、罪のゆるしと恵みによる義についての、神の約束を信ずる信仰である」といっています。

 知識の信仰を、救いの信仰にするものは、魂の苦悩であります。苦悩する魂の痛みを通して、信仰は、聖霊によって生まれるのです。しかし魂は普通、あまりにも、その苦痛に占領されてしまって、何が生まれつつあるかを知らないものです。しかしながら信仰が生まれているのです。「信仰とは、生まれたての嬰児のようなものだ。それは裸で、着物を着ずに、その救助者、救い主の前に立つ。そして彼からすべてのもの、義と、あわれみと、聖霊を受ける」(アーント)

(『聖霊を信ず』52〜54頁引用。※ルターの協力者、ただいろんな見方ができる人物のようだ。さて、昨日の某氏の結婚の発表、嬰児の誕生の予告、いずれもおめでたいことだが、私たちは手放しで拍手喝采するわけにはいかない。今日の文章の冒頭部分に注意いただきたい。「罪の非行についての深い悲しみを、ほんとうに知っている人は、古い生活を身につけたまま、神の国にもぐり込もうとはしません。」と言っています。一方、「報道ステーション」は大々的にトップニュースで報道しましたが、今朝の東京新聞では26面、14面扱いです。このくらいが妥当ではないでしょうか。「劇場民主主義」に飲み込まれないようにしたいものです。)

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