2019年8月22日木曜日

ゆるし6(ゆるす者とされ)

いじめられたり わるくちをいわれたときも
ともだちのために かみさまに
おいのりして ゆるしてあげなさい

万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。(1ペテロ4:7〜9)

 ゆるすことは愛することとの関係によって、よく説明できよう。「愛を求める人は人のあやまちをゆるす」(箴言17:9)。「少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」(ルカ7:47)「互いにゆるし合え」。これは「わたしたちは互いに愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生まれた者であって、神を知っている」(第一ヨハネ4:7)とのことばに相当する。この「愛する」ということと、「ゆるす」ということとを、ほとんど同じ内容に聖書では使っている。

 更に第一ヨハネ4章のことばを続けよう。「愛さない者は、神を知らない。神は愛である。神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛(ゆるし)が明らかにされたのである。・・・わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛(ゆるし)がある。愛する者たちよ、神がこのようにわたしたちを愛して下さった(ゆるして下さった)のであるから、わたしたちも互いに愛し合う(ゆるし合う)べきである」(8〜11)。

 私たちは、この最後のことばに注意しなければならぬ。私たちが互いに愛し合うのは、「神がこのようにわたしたちを愛して下さったので」であって、「神がわたしたちを愛しておられるように」ではない。私たちが互いにゆるし合うのも、神がキリストの十字架上の死によって、ゆるされたようにではなく、キリストの死によって、ゆるされたからである。この愛と、このゆるしとは、神からのものであって、人間からのものではない。生まれながらの人間は、この愛も、このゆるしも知らない。人を愛するといっても、自分に利益があり、損をしないときであり、人をゆるすといっても、自分に損がなく、かえって、それによって、人にあがめられ、自分の面子が保たれているかぎりにおいてである。実にただ、キリストの十字架によって啓示したもうた愛とゆるしを、わたしのものとして経験し、これによって新しく生まれかわらされた者だけが、互いに愛しあい、敵をもゆるすことができる。「あなたがたは、実に、そうするように召されたのである。キリストもあなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである」(第一ペテロ2:21)

 私たちは山上の垂訓に、そして、日々の祈りの主の祈りに、自分に罪を犯す者をゆるすことを教えられ、そして、そうすることができるようにと、神に助けを求めている。しかし、自分に犯された小さな罪をゆるしたとしても、私たちはその小さなわざを、あたかも自分の偉大な功徳ででもあるように誤信し、人もそう評価しがちである。そのため私たちは、ゆるしてやった人に会うたびごとに、そのことを思い出し、恩にきせがちである。それではまだ、その人の罪をゆるしたことにはならない。神のゆるしは、その罪を全く忘れて、罪のないものとして対してくださるのである。

 私たちも、自分の行なう罪のゆるしの小さなわざが、いつ、どこで、だれに行なったかも、ことさらに自覚しないほどに、キリストのゆるしの中にあって、ごく自然に行なわれるようになりたい。いま、受難節にあたり、十字架のことばを瞑想するとき、わたしたちに、そして、家庭に、社会に、国家間に欠けているのは、この「ゆるし」ではなかろうか。このゆるしの福音に生きず、また宣べ伝えることにも怠慢な罪を、どうか、おゆるしくださいと、祈らざるをえない。

(『受難の黙想』20〜22頁より引用。以上で名尾耕作氏の「ゆるし」の引用は終わる。なお、ほとんどこの文意にもとづいて今週の日曜日多くの方を前に話をさせていただいた。)

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