2019年8月20日火曜日

ゆるし4(過越の小羊イエス)

主よ、感謝します!
わたしたちの過越の食事ができるように、準備をしなさい。(ルカ22:8) 

「主よ、あなたがもし、もろもろの不義に目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょうか。しかしあなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう」
     (詩篇130:3〜4)

 不義に対する神の刑罰を恐れるのが自然であるが、ここでは、かえって、その不義をゆるしてくださるので、神を「おそれかしこむ」と言っている。刑罰は人を殺し、ゆるしは人を生かす。私たちが神を愛し、神を恐れるのは、義なる神が、その義をキリストの贖罪の死によって私たちに与えられたからである。「父よ、彼らをおゆるしください」。ここに神の厳しい義の成就を見る。ここには、ごまかしとか妥協などはない。この「恐れ」は、律法を完成するための「おそれ」ではなく、私たちが、キリストの罪のゆるしによって、義とされ、聖とされたことに対する「恐れかしこみ」であり、恐怖ではなく、むしろ、神へのおそれ多い感謝そのものである。

 「彼らをおゆるしください」との祈りは、キリストが自分の権利を主張なさるのではなく、かえって、ご自分の権威と位を放棄されるのである。神の子であり、救い主であるかたが、人間の罪をご自分の罪として負い、罪びとのひとりに数えられるのである。罪のゆるしは体面をつくろう律法の世界にのみ生きている者にはとうてい理解できない。ゆるしは自分の「面子」(めんつ)をつぶすことであるから。

 「彼にはわれわれの見るべき姿がなく、
 威厳もなく、
 われわれの慕うべき美しさもない」
                (イザヤ53:2)

 実に、他人の罪をゆるすその姿は、その人の面子も、まるつぶれであり、威厳もない者のようにならなくてはならない。イエスを十字架につけて、この祈りを聞いた者たちですら、「彼は他人を救った。もし、彼が神の子キリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うがよい」、「あなたがユダヤ人の王なら、自分を救いなさい」と叫んでいる。人の罪をゆるすため、侮辱され、つばきされ、打たれ、傷つけられて、十字架につけられているこのみすぼらしい姿のイエスを見て、彼らはイエスがだれであるのか、イエスが何をなさっているのか、わからずにいたのである。

 このことは、イエスの方から言えば、「彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」であり、また、ある写本にあるように、「彼らは何であるかを知らないのです」と言うことができる。イエスとわたしたちとの関係がはっきりするとき、わたしたちの存在も明らかとなる。いまここでは、「彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」とのことばについて考えたい。

 彼らがイエスを十字架につけたその時は、ちょうど、過越の祭の始まる日であった。この日の夕刻、つまり日没から、ユダヤ人の三大祭の一つである過越の祭が始まる。過越の祭りを守る目的は、当時から約千三百年前、彼らの先祖たちがエジプトで奴隷であったとき、神はモーセをとおして彼らをエジプトから救い出し、約束の国カナンに導かれるに際し、ユダヤ人とエジプト人に対して、十の災害の奇跡を与えられた。この過越の祭りの起源の一つとユダヤ人によって伝えられている災害の奇跡は、その最後のものであった。

 それは、一歳の雄の小羊で傷のないものを選び、ニサンの月の十四日の夕刻、これをほふり、その血を家の入口の二つの柱と、かもいにそれを塗ったのである。それは、モーセをとおして命ぜられた神のみことばどおりにすることであった。そのとおりにした家だけは、人とけものとのういごが打ち殺されるという災害からまぬかれた。すなわち、災害が過ぎ越したのである。それで過越の祭りを守る一つの目的は、小羊の血によって災害が、まぬかれたということを記念することであり、もう一つの目的は、その小羊の肉はもちろん、その頭も足も内臓も火に焼いて、家族の者たちが食べてしまうことにより、神と一つになることを記念するためであった。過越の祭りとパン種を入れないパンを食する除酵祭とが一つにして守られるようになったが、私たちは今ここでは、過越の祭りがこの傷のない小羊の血による救いを記念することにあったという点に注意したい。

 彼らユダヤ人は、今日でも、モーセをとおして与えられた神の命令を忘れてはいない。「あなたがたはこの事を、あなたと子孫のための定めとして、永久に守らなければならない。あなたがたは主が約束されたように、あなたがたに賜わる地に至るとき、この儀式を守らなければならない。もし、あなたの子供が『この儀式はどんな意味ですか』と問うならば、あなたがたは言いなさい、『これは主の過越の犠牲である。エジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越して、われわれの家を救われたのである』」(出エジプト12:24〜27)。

 彼らユダヤ人は、この日、この過越の祭りを守るために、彼らの罪のきよめのための罪祭としての過越の小羊、すなわち、神との和解(神と一つになる酬恩祭)の犠牲としての小羊を殺さねばならなかった。それが、今、彼らがイエスを十字架につけた同じ日であり、同じ時刻であったということは何という皮肉であろう。

 「彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。実に彼らは、先祖代々、過越の傷のない小羊を殺し、その血によるあがないを信じてきたのであったが、それが、今、彼らが十字架につけている罪のないイエスの血によるあがないの予表であったことに気がつかなかったのである。後でパウロは「わたしたちの過越の小羊であるキリスト」(第一コリント5:7)と言っているが、イエスを今、十字架につけているユダヤ人たちは、イエスを罪のあがないのための汚れなき小羊としてみることなく、かえってイエスを、神を冒瀆したにくむべき大罪人として処刑していたのである。

(『受難の黙想』13〜17頁より引用)

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