2023年4月10日月曜日

日々イエスさまの御顔を仰ぎ見よう

イースター 友の語りし 喜びよ  
 昨日はイースター、主のよみがえりを記念する日だった。

 教会に出席していた頃は、「受難の七日間」を覚えて、その一週間前の日々、早天祈祷会が持たれていた。牧師がイエスさまの受難の七日間に応じたメッセージをしてくださった。出席は自由参加であったが、私はほぼ二十年間皆出席だったのでないかと思う。普段とは違い、朝早く起き、出勤前に会堂にまで出かけ、イエスさまの私たち罪人のための犠牲である十字架を思い、祈りをささげ、身を慎んだ。それは同時に我が身にとっては克己の一週間でもあった。

 その一週間もイースター(復活祭)の朝を迎えると、一気に喜びに変わり、爆発する喜びをあらわすべくありとあらゆる方法を用いて市民のみなさんのところへ福音を携えては出て行った。イースターの一日は教会員総出で野外に出て様々なイベントを行なった。「主はよみがえられた」と大きなアドバルーンを打ち上げたのを始めとして、野外に集まったたくさんの人々と礼拝をともにし、風船を飛ばした。それが終わると、「受難劇」を演じたり、模擬店を何店か出し、教会前は通行止めにしていただいた。夜は夜で映画会を野外で催し、一日お祭り騒ぎだった。

 一番気掛かりだったのは、天候であった。折角前日まで用意していても、当日朝になってみたら、雨が降ってたでは、すべての事前計画はだめになってしまう。しかし、その二十年間のイースターの日々、雨で中止した記憶はない。むしろ目まぐるしく動く雲や雨にさらされながらもその時は太陽が顔を出しイースター礼拝を予定通り送れた記憶があるほどである。クリスマスにくらべるとイースターは日本人には馴染みがない。ましてやイースターは日曜日だが、固定していない。年によってちがう。春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」と決まっているようで、今年は四月九日であった。

 その私が教会を出て、すでに三十三年経ってしまった。その日々は毎日がクリスマスであり、イースターであり、特別この日がイースターだと言って「克己」と身構えることはなくなっている。私自身、教会を退会して以後、信仰を捨てたわけでなく、むしろ主イエスさまの恵みをより一層体験する日々である。その私ではあるが、昨日は三ヶ月に一回の市川での礼拝に出かけた。当日は礼拝の後、福音のメッセージをするように依頼されていた。そのこともあって、先週はイエスさまの「受難の七日間」を覚えて、日を過ごした(つもりである)。

 そのために『受難の七日間』という、その名もずばりの、デンマーク人のA・フィビガーという方が書いた本を引っ張り出して読んだ。随所に線が引かれていて、何年か前に読んだようだが、すっかり忘れてしまっている。つかみ読みをしていたようで全編初めから終わりまで読み通した記憶はない。その本を改めて読み進めるうちに、聖書の奥深い叙述に改めて目を開かされた。閉じていた霊の眼が開かれたと言った方が正確だ。それをもとにイースターのメッセージを準備するには全く時間オーバーであり、土曜日の深夜まで何を語るべきか答えは一向に出ずじまいであった。とても市川にお邪魔するわけにはいかない、と心の葛藤は続いた。

 でも、出かけた。教会には牧師がおられる。ところが私の出席している集会は素人集団である。誰が何を語ろうが、語る人に全て任されている。これほど乱暴なことはない。しかし、それぞれが、主と聖書のことばをとおして日夜教えられている。だから、語る人、聞く人の垣根はすでに取っ払われている。教会では牧師さんが語られる聖書の解き明かしを、信者は口を開けて待っていれば良かった。考えてみれば、教会を出てすでに三十三年間、私は今度はその素人集団の一人として人前で聖書から話をさせていただいてきた。その私にとり、ここ数年聖書からお話をすることができなくなっている。それは聖書の真理を全く知らないという発見である。今回経験した心の葛藤もそのひとつだ。

 ところが、昨日は昨日で主の豊かな導きがあった。私の話の司会に久しぶりにお会いした方にお願いしたところ、その方が、ご自身の過去一年間の闘病のありさまを率直に話してくださった。一年間に三つの病(胸膜肺炎、胃がん、ヘルニア)を抱え、死を覚悟したこと、毎朝、目を覚ましてみると、生きていることを確かめる、その度に生きようとする力に満たされた。死にたくない、死ぬわけには行かない。私にはまだし残したことがらがあると語られた。苦しみをとおして与えられる喜びを味わったとも話してくださった。

 私はお聞きしながら、私も聖書の真理を理解するまでは死にきれないという思いがあるので、その方がおっしゃった「死にきれない」という思いに共感できた。それは「死にきれない」と思っても、「死がやってくれば素直に従おう、しかし、その時までやるべきことをやっておかなければならない」という決意の表明でもあった。もう今日のお話はやめにしようと思ったが、予定していた話「神の和解を身に帯びて」という題名でつたない話をさせていただいた。

 記念にその方の話をお聞きして感じた私の印象のみことばと、私自身がお話でお伝えしようとしたみことばをそれぞれ順に書かせていただく。

私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう。(旧約聖書 詩篇17編15節)

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。見よ、古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなりました。これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。(新約聖書 2コリント5章17節〜18節)

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