2023年12月20日水曜日

初雪の我が思い

初雪に 寒さものかは 千両
 二、三日故郷に帰っていた。月曜日の朝、気づいたら庭先に雪が舞い降りていた。いよいよ冬の到来である。帰り際、伊吹山はもちろんのこと、霊仙山(りょうぜんざん)など近くの山々もうっすらと雪化粧をしていたが、東海道線の彦根・関ヶ原間を東京方面に一歩、離れると雪は見られなかった。繁くこのあたりを旅する者には、今も不思議で、芭蕉に「おりおりに 伊吹を見ての 冬ごもり」の句があるほどである。寺田寅彦がそれにちなんだ名随筆を残している。地形と気流の妙なる組み合わせを明治時代の彦根測候所のデータをもとに分析した文章である。

 今回帰省したのは日曜日の近江八幡での礼拝に出席するためであった。礼拝は喜びの時であるし、すばらしいし、いつもその「賛美」やそこで読まれる「みことば」や「祈り」に大いに励まされる。そして、遠くから来て良かったと思わされる。ところが、そのあとが私にとっていつも苦痛になる。礼拝に続いて、福音集会というのがあり、そこで聖書のことばから示されたことを語るひとときがあるからである。普通それは「メッセージ」と言われているものなのだが、その当番に当たっていたからだ。私は、今年一年そのご奉仕に悩み続けてきた。そのメッセージが毎回、中々自分の思ったように、できないのだ。その日は近づく。時間は待ってくれない、どう語っていいか悩みに悩む。ただ座右には聖書があるから、ほんとうはそんなに困るはずがないのだが・・・。今回このご奉仕を終え、一年間のメッセージの機会はやっと終わった。今ホッとしている。

 そんな気持ちにはまだなっていず、日曜日のメッセージを、依然として、ああ語れば良かった、こう語れば良かったといつもながらの後悔をしていた月曜の朝、床から起きて見たのが、この雪景色であった。千両の赤や黄色の実はいつも冬の間、庭先を彩ってくれる。灯籠や石ばかりの庭で風情もあったものではない。小さい頃は、それでも梅もあり、つつじ、椿とそれなりに季節の移り変わりを感じさせてくれた。その庭に初雪が舞い降りていた。我が思いを包むかのように。残念ながら、覆い尽くすまでには至らなかったのだが・・・

 こちらに帰ってきて、自ら録音したものをもう一度聞き書きして、自己満足ではあるが、以前よりは「福音」をストレートに伝えられるようになってきているのを知って少し安心した。新しい年は、もっと聖書に親しもう、イエス様を心から愛し従おうと今思いを新たにしているところである。ちなみに近江八幡のメッセージの題名は「敬虔なる服従」で引用聖句は1ヨハネ2:15〜17で、結びの聖句は1テモテ3:16、4:7〜8であった。

 ところで、先ほど、一年前のブログ記事https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2022/12/blog-post_22.htmlを見て驚いた。意味の不鮮明な文字を冒頭に書いていたからである。「嫉妬に燃えた不仁慈らが見出すことの出来なかったイエスの死の尊さを、偏見のないこの異邦人は見出し得たのである」という文章であるが、これでは読者は何のことかわからないはずである。「祭司長」と書くべきところを「不仁慈」と書いていて(パソコンの変換ミスであろうが)一年間も乙に澄ましていたからである。一年後にこの誤植を見出すとは、過誤があるのが私の常であると思うが、改めて、いかにも我が人生を集約しているかの思いにもさせられている。

「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。しかし、もし拒み、そむくなら、あなたがたは剣にのまれる。」と、主の御口が語られた。(旧約聖書 イザヤ書1:18〜20)

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