2009年10月24日土曜日

『死者に語る』(副田義也著 ちくま新書 2003年10月刊行)

 この本を読もうと思ったのは言うまでもなく、『あしなが運動と玉井義臣』という本を書き上げた副田氏に関心を持ったからである。しかし、一方この本の副題である「弔辞の社会学」は私に読むのをためらわせるものがあった。弔辞は不要と考える私の考えがあったからである。

  つい数週間前に前橋で葬儀に携わらせていただいた。亡くなった方は私の存じ上げていない方だったが、奥様が私と同じキリスト者であった。ただ奥様は信仰を持たれてまだ数年のことで、聖書にもとづく葬儀(無宗教による)については何もご存知でないお方だった。葬儀に至るまで何日か間があったこともあり、その間奥様から色々なご相談を持ちかけられた。ご自分で判断しながら、最終的にはどうなのでしょうかという私への問いかけが多かった。その中に最後の方で持ち上がってきたのは、ご主人の友人が弔辞を読みたいと言っているが、それはいいのでしょうかという問い合わせであった。私は少し迷ったがご友人の思いを尊重して、弔辞をしていただくことに同意した。

  私は当日聖書からのメッセージにたずさわり、ご主人の霊は天の御国に凱旋されているものと思う、と話した。式の最後の方でご友人が弔辞を読み上げられた。私のように故人と全く交流のなかった者と違い、さすがに大学時代から行を共にされたお方であり、情のこもった弔辞であった。それは故人の霊に語られる形のものであった。

  実はこの本の第一章で弔辞が対会衆型か対故人型か、弔辞を述べるその人の死生観をもとに分析がなされ、著者自身の死生観が少し序章的に紹介される。続く四章で、政治家の弔辞、社葬における弔辞、キリスト教知識人の弔辞、文学者の弔辞がそれぞれ丁寧に分析される。しかも弔辞を受ける人が、岸信介、浅沼稲次郎、松下幸之助、矢内原忠雄、田中耕太郎、原民喜である。一方弔辞をなした人々は、中曽根康弘、江田三郎、谷井昭雄、南原繁、近代文学同人である。この人選、順序は用意周到に配置されている。

  この中では私が実際目撃した身近のものもあった。17歳の時、同じ17歳の少年が立会演説会で浅沼氏を暗殺したあとの弔辞である。それは安保闘争により国論が二分された時代の折のもので、私はテレビ中継で暗殺の場面をたまたま見てしまったし、それゆえにこの折の弔辞は国会での政敵であった池田勇人氏のものを耳で覚えている。その名文が一部採録されている。その他のものでは南原繁氏が矢内原忠雄氏に対してなされた弔辞は一度ならず、文章を通して読んだ記憶があるが、それ以外は初見であった。特に原民喜氏のことについてはここに書いてあることすらよく理解していず、未知の領域と言っていい内容であった。

  順を追ってこれら四章を読むときに戦前から、戦後へ、そして冷戦後の今日、あるいは高度成長経済から今日の脱産業化の時代への動きが著者の解説とともになされ、深く時代を振り返ることが出来る仕組みになっている。一般に本は最初から読み始めて、途中で諦め投げ出してしまう例があるのでなかろうか。この私はそうであった。しかし齢を重ねるにつれ、忍耐強く最後まで読み進めることを学ばされるようになった。若い時にこれだけの忍耐心があったらと悔やまれてならない。特にこの本の醍醐味、圧巻は第五章と終章にあった。

  第五章で明らかにされる広島原爆の被爆者であった原民喜氏のことを述べているところはとても考えさせられた。先頃、核なき世界の演説でオバマ氏がノーベル平和賞を受賞するニュースが飛び込んできたが、著者がこの章で指摘している問題をどれだけ多くの日本人が理解しているか心もとなく思わされた。それは「東アジアのなかの日本」(同書210頁)に登場してくる中国の方励之氏の指摘である。所収は中央公論の1987年の8月号であるとのことである。全文を読んでみる必要があると思った。著者自身が愕き呻いたと言われるものだ。そのさわりの部分を著者は引用する。

 「広島は、明治以後次第に戦争基地に変わっていった。そこには瀬戸内海最大の軍港と軍艦製造廠があり、そこはまた日本海軍の司令基地のひとつだった。しかも最初の海軍司令部を東京から広島に移したのは中日甲午(日清戦争)の海戦を準備するためだった。ここは戦場に近いがゆえに、前進基地と呼ばれた。戦争の名義で人殺しをする、とくに中国人を殺すことは、他でもなく、この地からスタートしたのである。これが1945年8月6日以前の広島の一面の歴史である。だから、広島の壊滅は、仏教用語を使うならば、悪に悪報あり(悪事を働けば悪い報いがある)なのだ」。(同書213頁)

  私は自分自身の不明を恥じる。そして原民喜の存在を改めて考え直したいと思わされた。このような歴史総括の中で、著者は最終章でもう一度それでは弔辞とは何かと読者に問いかける。そしてそこに著者自身の自分史が書きとめられるのである。

  それは著者の育ったクリスチャンホームの姿と同時に優秀な学徒を失った一人の人物に対する彼自身がささげた弔辞の吐露である。その人物は吉田恭爾である。私は昨日まで読んでいた彼の労作『あしなが運動と玉井義臣』の調査研究者の中にこの人物がいるのに気づいていた。しかしその人物が彼の学問の後継者としてまた同僚として期待していた人物だとは知らなかった。著者はこの本の最後で次のように締めくくる。

  この小著を私の思い出の中の吉田恭爾にささげる。君に出会ったことは私のこの上ない幸運であり、君に先立たれたことは私のこの上ない悲運であった。逆縁の辛さは老いてますますつよく感じられるのだが、われわれがともに激しく生きた日々をくわしく述べるのは、20年前の君への弔辞に記したように、私が引退したあとの仕事になるだろう。だから、その回想を君に贈るのはいま少し先のことになる。(同書234頁)

  言い知れぬ感動に襲われながら、著者が牧師さん家族のご家庭に育たれながら、ご自分の霊がどこに行くかを、必ずしも聖書のメッセージ通りに考えておられないようにお見受けした。悲しみを覚えざるを得なかった。しかし著者が様々な論考を精力的に行なっておられることを今回、この二著を通じて教えていただいた。心から感謝し、今後はその著作を読み続けてみたいと思うものである。

眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのないない人々のように悲しみに沈むことのないためです。私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。(新約聖書 1テサロニケ4・13~14)

(写真は日立Fさん宅のアマリリス 2009年5月)

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